SENDAI ORIGIN

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9月入学案に潜む宮城県知事及び高3の方の内心

 前回、宮城県知事が言い出しっぺの学校の9月入学案について、知事に対する自分の思いを語りましたが、この件についてもう少し掘り下げたくなりました。というのも私自身もそういうところがあるのですが、とかく我々は現在の環境が物の考え方に反映され、それが元での思考が形成されているところがあります。コロナウィルス感染問題で学校が休校し、いつの間にか休校が普通の日常になり、それだったら感染の恐れがなくなるまで休校して、9月頃に入学や始業式をして、半年ずらした中で1年間の区切りを付けようという、それがいい案だ、そうすれば学習の遅れも解消できる、という考えが宮城県知事から生まれ、現状から生まれた思いから世間一般の大衆も、そういう考えに賛同し始めました。人の意識、物の考え方というのは現在の状況、環境に左右されやすいことがこの事例からも分かります。
 ここで思うことはその状況を分析することにより、実際にどうしたらいいか、本質の部分が見えてくるということです。私達はどうしても、状況からの思い付きで物事を判断する癖があります。しかし、そのような判断では非常に危険と言えるでしょう。
 宮城県知事が9月入学案を提案するその背景に何があるのか、地域落差がなくなり留学もスムーズになり国際化が進むという話しはあるものの、それに騙されてはなりません。知事の内心には何があるか、ここで掘り下げで考える必要があります。
 おそらく知事は1,2か月でコロナ問題がなくなるとは、この時点ではもちろん考えていません。しかしそれを終息させる対策論もないのです。治療薬もないわけですから。コロナ感染はすぐに無くならない、そうであれば斬新なアイデアを提案して全国にアピールしよう・・・、そういう気持ちが知事にあったのではないでしょうか?
 知事からなぜそういう発想が生まれるのか?、それは今、自分に小学生くらいの子供がいない、そのような状況から当事者的な感覚になれず、子供達全体を考えた発想ではなくなり、自分の個人的な願望から来る考えを公にして、通してやろうという考えが生まれたのではないでしょうか。本来、知事に求められるのは、いろいろな人の立場になり、物事を考えていくという客観性なのではないでしょうか? 9月入学案というのは子供のことを考えているように見えますが、実際、本当に考えているのか疑問に思います。学年の開始を半年遅らすということが9月入学案の根幹ですが、小学生の半年というのは大人の半年と時間的には同じですが、当事者から見れば本当に長いのです。年齢によっては半年で背丈も大きく変わる子がいます。自分の小学生時代を振り返ればすぐ分かります。6年間はすごく長く感じたのではないでしょうか?でも大人になってからの6年間はどうでしょうか?すぐにその差が分かることと思います。
 幼稚園&保育所、そして小学生時代、何でも吸収し自分の物とし、人格が形成されていく大切な時期です。その大切な時期に学習面だけ今までより半年も遅らせるのですか?ということなのです。しかも子供が過ごす半年は本当に長いのです。それで本当にいいのですかと。半年早めるならまだ理解できるところであります。しかしこういう考えを日本が実現するとなると、国際化が進むどころか世界から見て遅れを取り、置いて行かれることになるのではないでしょうか。また、9月入学を実行したところで感染の危険性はまったくなくなるわけではありません。万が一、感染拡大で、また休校になったらどうするのでしょうか?何でも吸収する年代の貴重な時間は取り戻せないのです。小学校入学ならば6歳で入学のところを6.5歳にしようという案です。知事は自分の娘さんある程度が大きくなっているので、保護者という当事者的な目線ではおそらく見れていないのでしょう。
 いい案だ、全国に提案する、しかし国民に対しては伺いをたてることもせず案を通して押さえつけて理解させるという、やり方を見ていると実に官僚的になっています。
 現在の状況から見て改善するということ、これは日常の企業の運営でも同じことだと思います。今回の9月入学案は、現状からズレた案であった、そのことを私達は見抜く必要があります。私の息子は中学生ですが、仙台市では小中学校に1人1台のタブレットが今年中に市から渡されます。渡されることになった意味合いは複数あると思いますが、今後もコロナ感染での休校の恐れは残ってますから、その対策として見るならば、公立の小中学校では画期的とも言えるでしょう。状況を正確に把握してどういう判断を下すか、仙台市の判断は正しいと言えるでしょう。この判断の以前からタブレット導入の話しは上がっていたようですが、今年中という計画が出されたのは状況から正しい判断がされ、その結果、導入計画も状況が反映され、新たな今年中の導入という計画が作られたのでしょう。
 ただし計画が実行され、今度は計画を実行して、次にまたその元で状況はどうだったのかということについて、見ていかなければならないでしょう。そしてそこで、次回導入するときは、ここをこうした方がいいとかという案が生まれるでしょう。
 宮城県知事はこういった一般的な、会社を存続させるための流れを知っているのでしょうか?実際に知っているかもしれませんが、しかし今回のこの発言を見ると、疑わしく思います。現実から出発した改革案とは程遠いからです。しかも地域落差を無くすと言っておきながら、自分が知事をやっている県内で、仙台市だけ小中学生にタブレット導入という落差が生まれています。知事はそのことは今、問題視すべき点なのです。そういった現実が起こるわけですから。
 ということで今まで知事のことを言ってきましたが、では9月入学案に賛同する一般の人の内心はどうだったのでしょうか? 簡単に言えばコロナ問題で学校には行けない、学習が遅れてる、それだったら9月入学案もありかな・・・という感染拡大という現象に振り回せれ、直感的で、それによってどういう現象が新たに起こるかということに対して、盲目になってしまったとも言えます。
 前々回、別なネットの場所で、9月入学案にちょっと待て的な意見を出したと私は言いましたが、その意見に高校生の方からも回答をいただきました。この高校生の子の回答は授業の遅れ、学習の遅れを感じている正に当事者でしたが、私の9月入学案に反旗を示したことに対して賛同してくれた、ということではなく、逆に私の意見にも反旗を示していたのです。コメントを見てみましょう。
「9月入学案に賛成する高校生で、小学生の弟がいます。子供当事者の目線として言わせていただきます。(中略)私だって早く学校に行きたいです。それは確かに当然ですが。現在はコロナウィルス感染爆発を防ぐ為に学校に行くことが出来ない期間なのです。いつ改善されるか見通しも立たない状況ですので、理由もなく半年自宅で過ごすのではありません。なぜ今、緊急事態宣言が出されているのか考えてください。そして、仮にコロナが収まって通常通り3月に終業式を迎える日程で学校が再開されたとして、休学中のブランクを取り戻す為に夏休み、冬休みはもちろん運動会や文化祭などの行事も中止となって、最悪本来部活動の為の時間さえも割いて勉強することになるでしょう。ただ勉強するだけの刺激がない学校生活が楽しいものになるのでしょうか?それならばいっそ、9月から再スタートを切って行事や部活動などもちゃんと行える様にしよう、という案なのです。学校に行きたいという息子様の意見は先述した通り同意しますが、感情論だけで学校再開ができる状況では無い、ということを理解して下さい。」
 高校3年生の方のようですが、文章から切実な思いが伝わってきます。自分の思いを語った立派な文章です。こういう思いを語ってくれて私はありがたく思いました。
 でもです、この高校生に対して、いい意見を言ってくれた、あなたは真面目で言い方ですね・・・とは私は返さなかったのです。いろいろな評価はあると思いますが、このような文章を打つ背景には何があるのが、そこのところをよく考えてみる必要があります。彼(彼女)は高校3年生。学校に行けない日々が続いている中で、もはや自分は高校3年生。高校生活は1年を切っているわけです。学校行事もこの先ろくに味わえず、さらに部活も中途半端で引退、そういう現実が予定通りの3月卒業であれば待ち構えているわけです。このまま勉強だけで高校生活を送って終わっちゃっていいのだろうか・・・、高校3年生ならば感じることでしょう。思い出が残せない・・・それはつらいことでしょう。
 しかし・・・、だからそれならばいっそ、9月から再スタートを切って行事や部活動などもちゃんと行える様にしようという案はいいですね、とはならないわけです。この子の言っている背景には、自分は高校生活を最後まで有意義に過ごしたい・・・という自分を中心とした思いがあるように感じます。誰だって高校生活は最後まで有意義に過ごしたいと思っています。当たり前の感情です。でも、その思いを通すことにより自分より下の世代がどうなるか、また4月新年度が基本の社会がどうなってしまうのか、という客観的な感情がこの子には見当たらないのです。それであたかも正論のように話しをまとめてしまっています。物事を良い方に改革するには、発言してる人の意見に振り回されることなく、その背景には何があるのか、そのような発言の根拠は何なのか、そこを見て意見を取り入れるか否か、考えていかなければならないでしょう。今、見るとちょっと厳しい返答になった感はありますがこの子、高校生には次のように返しました。
「今、日に日にこれを言ったら大変という現実がみなさん分かってきたようです。感情論になっているのは賛成する人です。単に学校だけで問題ではなく、新卒の就職時期も9月に合わせなければなくなります。社会構造が変わってしまうような話なのです。もともとこの話は宮城県知事の妄想から始まった話なのです。この手の報道もコメントもちょっとまずいんじゃないかというコメントが多くなってきています。‥中略・・あなたの思いが子供を代表した思いではないこと、客観と主観があるのですが、あなたは自分の思いが正しいと思う主観的な高校生さんだと思います。」
実はその後のやりとりがあり、高校生は私に対して「私が子供を代表した意見を述べてるといつ言いましたか・・・」となるわけですが、自分の思いが子供すべてに当てはまらないということで言ったわけですが、討論よりも、その件を言ったことはこちらが素直に謝っておきました。えっ、と思われるかもしれませんが、そこは重要な点ではないからです。ここで言っておきたかったのは、どのような展開過程を経て9月入学案が実現できるのか説明してほしい・・・ということです。それがなく、ただ主観的な思いで9月入学案に賛同、ということでは駄目だよ、というのは言っておかなければならないことだと思ったのです。
 9月入学案を出す、またそれに賛同する人、人の発言にはそのように発言する思惑、根拠があり、そこを見極めるため、発言に対して発言の中身を分析することは大切です。会議を定期的に行うというのはとても大切なことで、そのことはある程度の企業に勤めてこられた方なら身についています。私の会社の上司でさえ、それは知っています。問題なのは発言する相手方の立場になって、この人はどういうことでそのような発言をするのか、今、起きている表面的な現象だけで発言の意味合いを判断せず、本音の部分を掘り下げて、言っている真意をつかむことでしょう。人はどうしても自分へのこだわりがあります。そこからどうしても離れられません。相手がどう考えているのかという点を遊離する傾向があります。自分の思いの方が可愛いのです。見えている部分を安易に認証し、現実に起きている状況に染まり、この先、何が正しいのかという結論を出すときに、自分の思いを中心としたものを当てはめる計画を出しがちです。しかしその元での計画の実行は、危険性をはらんでいるとを私は思っています。

 相手の発言を分析し、間違った考えには指摘をする、それが相手に対する本当の優しさなのではないでしょうか? ですから会議で討論して指摘しあい、最善の案をみんなで決める、そこにこそ物事が良い方に向かう本質があり、そのような組織は、組織としての質は高いと私は思っています。現在はお互いに意見を出し合い対等に話し合って決める時代であり、女性でも対等に話す時代になりました。上から押さえつけて話すという昔の軍隊形式は過去のものとなりました。
 私はそういうことを職場では以前、感じており、労働組合の必然性というものも同時に感じていたのです。