SENDAI ORIGIN

YouTubeチャンネル「SENDAI ORIJIN」制作者のブログ

運気を上げる心構えで私が思うこと

有名な「Xmas Express」のオマージュYouTube動画に出演して頂き、カメラ目線で笑顔も振るまってくれたモデルの八海杏奈さん。

 表題、どう感じたでしょうか? 私は50年以上生きていますから、その人生の中で学んだものは多々あります。それらを申していきたいという気持ちになり、今日は話していきたいと思っていますが、最初に申していきます。運気を上げる心構えを実践したところで、現在起きている問題と向き合う姿勢がないと、状況が好転しないということです。これでは「苦しい時の神頼み」です。

 神社にお参りし、一心に手を合わせる。手を合わせれば心も落ち着き神様が何とかしてくれるという気持ちになる。しかし現実とむき合わず状況を変える研究、努力もしていないので、苦しみは変わらない・・・という状況になってしまいます。日々、運気を上げる方法を実践したほうはいいのですが、形だけ実践して、現実を変える努力をする気持ちがないと、結局、何も変わりません。単なる精神論で終わりです。そこはご了承頂きたい点です。

 反対にその逆のケース、状況を書き出して分析していき、状況を変える指針を出し、それに向かって頑張っているが、人としての基本的なことがなっていない人。そういう方も長い人生の中で私は見てきました。

 私は現在50代でコンビニ店員をやっていますが、若い頃も実はコンビニ店員の経験があります。その頃の方が若かったので仕事がスムーズにやれたのではないか・・と思われがちですが、実はもうすぐ初老となろうとしている今の方が、楽しくきちっと仕事をやれています。生活をしていく中での発想の変化からなのでしょう。

 ですが・・・です。机上の精神論では何もなりません。もっと言えば、心構えさえよければ何もかもうまくいくという、宗教染みた考えになってもどうかと思います。心構え+実際に状況を変える行動・努力・研究、それが無い方には、今から申すこともおすすめできないことを、あらかじめ申しておきます。

 では・・・運気を上げるにはどうしたらいいのか?

 私は日常の生活をより良いものにしていこうと考える中で、外せない思いは「人事円満」、このことです。いくら給料が高い会社に入ろうが、理念が高いサークルに入ろうが、人間関係が悪かった話しになりません。ただそこで思うことは、自分の人間関係が悪いのまでも、他の人のせいにしてしまう人がいるということです。もっともそれは否定できない部分もありますが、そのように思う発想が自分は悪くない、相手がこうだからという、自分を振り返らないことが多く、相手のせいにしてしまっているのです。

 私は共産主義者でも何でもないですが、マルクス唯物論では、自分が周りに及ぼす影響に着目しています。事物の発展を事物の内部の自己運動とみなし、その運動が周囲の他の事物と連帯し合い、影響し合い、状況が変わっていくという考えです。過去の学生運動において、当時の学生活動家達は共産主義を掲げ、その原点はマルクス主義でした。現在の世の中は動かしがたいと考えがちなところを、彼らは事物の発展を事物の内部の自己運動とみなし、その時々の社会の現象に振り回されることなく、内部にある発展の力に変革を見い出していました(但し若さ故か暴力的にそれを実行したことに対し、私は当時の彼らの行動は肯定はしません)。

 また仏教の経典にメジャーな般若心経というのがあります。物質には実体がない、「空(くう)」である、というのです。この部分はまさに唯物論の世界の事物と形態は、永遠に変わらないものではないと考える部分に似ています。あなたは今、苦しいか、苦しいのなら苦しみから逃れられる方法がある。人間も物質、「空」だからどのようにでも変われる、しかし本質(核)は変わらず存在する、だから悪い状況下でも存在はなくならず、いい方向に変われる道がある、修行によって自分を良い方向に変えていくこと、そういった道を歩まなければならない、そのような意味、考えが般若心経にはあります。

 唯物論も般若心経も、現象にとらわれず、本質に気付き、良い方向に変えなさいという意味合いがあります。

 マルクスの思想は左翼、日本の古典的な仏教、精神世界を重んじる思想は右翼的だと言われますが、実は共有する考えが両者にあることが伺えます。私はどちらにも偏った見方をしていませんので、そういうことを発見した訳ですが。

 周りの変化に状況の変化を求めるよりも、まず自分の気持ちを良好に保ち発展性のある考えを持ち、周りには感謝の気持ちで優しく笑顔で接し、自分の良好な気持ちを波及することに着目してはどうでしょうか。やはり人はそのように考える人、また笑顔で話してくれる人に好感が待てます。自分の行動が相手にどう影響を及ぼすか、それは唯物論や般若心経が示しています。自分の気持ちが良好に変わらない限り、いくらいい会社に入っても状況は変わりません。相手からどういう人物か、どういう評価の目で見られているか、というのがあるからです。

 人に優しくせよというのは、博愛主義者だけが指針にする言葉ではないと思います。それは回りまわって自分に跳ね返ってくることであると思います。

 その上で私が申したいことが1つあります。単なる「人に優しく」ということだけだったら、多くの人が言っていることをコピーしただけの感じで終わると思います。私は「人に優しく」接していくことが運勢を良くしていくと考えることかつ、「自分にも優しくしていく」というのが大事だと思っています。よく自分を犠牲にして相手に尽くすということが、美学だといった考えを言う人がいますが、そういうのは昭和的な考えと私は思います。苦労して耐えて我慢して、その先に状況の変化を見い出すといった根性論は、男社会の中ではそれで良かったかもしれません。しかし今は男社会ではありません。たとえばですが今の若い女性がそういう話しに付いていけるのでしょうか?、と私は感じます。時代はハードからソフトに移行しているように私は思います。私はそんなに詳しくは分かりませんが、男性も硬派より、いい意味で女性らしい要素もある男性が人気のある時代なのではないでしょうか?

 私はちょっと前から我慢して、生活を過ごしていくということをやめました。もう50代も後半ですから、年齢的に見ても、これからは今までのような考えはやめよう、体調を悪くするというのもあるのですが、自分が気持ちよく生活していけない中で、何で他の人に優しくしていけるのでしょうか。自分が苦しい中でも人には優しくという人は、仮面をかぶった自分でいろと言っているような感じがしてなりません。本当は自分が辛くしかめ面をしたいのに、仮面をかぶって笑顔で人に接していくというのはどうなのでしょうか。究極、そういうことになりませんか。

 自分が楽しい生活を送り、周りにもそのような自分のオーラを感じてもらい、周りも幸せにしていく、それが自然な成り行きだと思います。

 そこで大切なことは、相手を踏み台にして、楽しい生活が送れるようにと考えていく方がいますが、それは結局、周りを不幸にしていくことになります。

 >相手を踏み台に・・・というのは相手を批判し、自分の方が正しい、それを周りにアピールすることです。その言い方自体が、もはや自分の心の闇を他の人に暴露しています。相手はうんうんと言って聞いているかもしれませんが、そういう環境には幸運は訪れません。そういうことを言ってもいいという環境になり、相手も自分のいないときに、人の悪口を言うようになるかもしれません。最悪、自分の悪口を言われているかもしれません。人の悪口を言うのは意思統一で、その場限りはいいかもしれません。しかし、そういう人の悪口を平気でいうような環境では、本当に相手に対して、お互いに、思いやりを持って接することができなくなってしまうのではないでしょうか・・・。

 結局、運気を上げることの本質は、周りに対し優しくできる程、物事に対して感謝する心を持てるかどうか、そしてその心を持てるかどうかは自分次第ではないかと思います。