夜明けのCRYSTAL ROAD<懲戒解雇からの復帰>

北上京だんご分会長のひとり言

北上京だんご分会長が!?秘かに受講していた子供の里親研修

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 北上京だんご本舗のずんだ餅は以前もお話しした通り、アニメ、アンパンマンを生んだ「やなさたかし」さんがデザインした「ずんだ・もちこ」がキャラクターとして、ずんだ餅の箱に描かれています。やなせたかしさんに関しては言わずとしては有名な漫画家ですが、やなせたかしさんの食に対する思いは深いものがあります。その思いについては、以前の私のこのブログ<ずんだ・もちこのデザインをした「やなせたかし」さんの戦争体験から来る思い>にて、私も書き表しています。

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 小さな子供たちは大人気のアンパンマンです。やなせたかしさんは晩年、ステージに立ち、子供たちの前で自らも加わったアンパンマンショーを行っていました。80代になっても身軽さを失わず子供たちを喜ばす姿の背景には、いろいろな積もる思いがあったのでしょう。
 このブログは題目こそ「懲戒解雇からの復帰」になっていて、懲戒解雇された人間がどのように復帰したのか?という点が描かているような装いになっていますが、その題目の背後にあるのは階級社会、落差社会の真実、現実であり、またそのような社会の家庭の中で生きる、子供たちに関係した面での話しがブログの文面には多く出てきます。
 正直、労働組合の分会長としてどう復帰を果たしたか、その部分に関しては中途半端になっています。というかこのブログは表面的には「懲戒解雇からの復帰」を打ち出しているのですが、実はそれは大衆向けの宣伝文句的なところがありました。なんだそうなのか・・・と思う方にはひたすら謝るしかないと私は思っていますが・・・。このブログは会社から見れば、何を書いているんだ!ということになるかもしれません。しかし私の中では、このブログの性質は題目とは異なると思っています。もっともそうでなければ、私はパソコンのキーボードを打てないでしょう。本格的に会社との闘争等を出すと思ったら、私の判断では書けない部分も出てくると思うんです。ですから今、こうして書けるのはブログの本質は、実は「懲戒解雇からの復帰」が主体ではないからなのです。
 さて階級社会、落差社会の家庭で生きる子供たちのことの話しを先ほど出しましたが、私の子供が今よりも小さかった時代に、私にはいろいろな思いがありました。

 今の時代、家庭を持つのが必ずしも普通という時代ではなくなったこと、その中で子供を産む、それは、同じ年代であっても全く違う人生を歩むということになるということです。私は子供が小学生に入った時点で、小学校の父親有志で作るおやじ倶楽部に入りました。父親どうしが協力し合いが自分の子供以外ともふれあうという機会を設けた、自分にとって面白く活動させていただいた会でした。
 ただその会で数年やっているうちに、子供も持てない人たちもたくさんいるのに・・・と思うようになりました。自分は幸いなことに家庭を持てて子供もいる、でも今の時代、ここまで来るのも困難なのではないか・・・と思うようになりました。非正規労働者の増大、それは女性だけでなく男性の非正規労働者も多くなっています。非正規ということはローンが組めない等の問題もあり、持ち家を購入できないということに発展していきます。私の地域では分譲マンションにいる家庭が多かったのですが、もはや家庭も持てて持ち家も持てて、それはもう勝ち組の部類に入るのではないでしょうか? ですから中古マンションとはいえ私も持ち家は一応あるのですから、私のその部類に入るということになります。
 しかし・・・世の中にはそうでない人の方が多いのでは・・・、そういうことはその時から感じていたことです。同じ日本に生まれ、本来であれば平等に生きなくてはならないのに、なぜこんなに落差が生じるのか?、おやじ倶楽部に集まるお父さんたちが一般大衆から見て大多数、とはどう考えても思えませんでした。大企業より中小企業の方が多い日本です。その中小企業は今、もうかっている方が稀です。必ず労働者の搾取の方に走っています。
 子供食堂というのが最近はいたるところにできましたが、本当に今の時代を象徴していると私は思います。おやじ倶楽部で活動していたころはまだ、子供食堂はメジャーではありませんでした。そんな中で、市政だよりの里親講習への参加の呼びかけを私は目にすることになります。その時、私は、これだ!と思いました。今の時代、裕福な家庭に育った子供たちだけではないという、そのような環境とは別の次元で育つ子供たちもいる、そのような子供たちはどんな表情をしているのだろう・・・、そう感じたのです。 

 そして、実際に里親講習を受講するため、ついに申し込みをしていました。でも私の奥さんは賛成、というスタンスではありませんでした。「いったいあなたは何を考えているのか・・・」という感じでした。
 やはりそれが一般的な感覚なのでしょうか? 自分の子供に愛情を注ぐのは当たり前のことです。でもそのような心で、様々な環境を経験してきた子供たちにも同じような愛情を注げられないのだろうか・・・、という思いが私にはあったのです。
 でもそれは自分がそうだと思い込み、それに酔いしれているのではないか、そうも思うようになりました。そこで自分の子供に対する思いを見つめなおすため、そして本当に里親にもなるということも、その時、考えました。もう8年も前のことになるんですね。
 期間は約3か月だったと思います。児童相談書での講義、これに関しては実はあまり覚えていません。印象的だったのがやはり、児童養護施設に研修に行ったときのことでした。
 そこは住宅というより一つの学校のようでした。でも教室はなく、何人かで過ごす個別の住宅という感じではあるのですが・・・。その施設の中で、いろんな年齢の子供たちと触れ合う機会が持てました。
 年齢にして小学校入学前の、園児くらいの子供たちと接する時間もありました。驚いたことに、そこは普通の幼稚園、保育園と変わらない光景があり、子供たちも何ら変わりない雰囲気でした。そのような光景を見て、私はなぜかその時ホッとしました。違った光景だとしたらどうしよう・・・という思いがあったのかもしれません。人懐っこい子供が多く、それも意外だったのですが、でも、そういう行動の背景には何があるのか・・・、そうも考えました。それを思うと涙が出そうでした。でも・・、そんな風に主観的に思うのは間違っていると言えるでしょう。「恵まれない子供に愛の手を」なんて言って街頭で募金活動をしている人達を昔、見かけたことがありますが、恵まれない子供はどういう状況?ってその時、私は思いました。恵まれないという決めつけ、そういうレッテルを貼るのか、ということになります。ですから涙が出るなんて、自分はまだ感情に流されやすいな・・・と思いました。児童養護施設の職員さんたちは、みんな生き生きと子供に接していました。そしてちょっとの子供の感情の変化を見逃していませんでした。里親にもしなったら、自分はそのようにできるのか・・・ということで、本当に考えさせられました。
 里親講習も終わり、画像のように講習、研修を受けた証が残りました。高給とは縁がない私ですが、でも家庭を持てて、持ち家も持てて、ある意味裕福な部類に入る私が、自分を見つめ直すための3か月の異世界での学習と旅は終わりました・・・。
 申請すれば里親にも本当になれたのですが、でも、妻はそこまでは認めてくれませんでした。他人の子供を愛すること、そのような器に荷はなれない、あなたも表面的に思っているに過ぎない・・・、そういう評価でした。でもそれは正解だったのかもしれません。いくら綺麗ごとを言っていたって、現実に愛情を注がなければならなくなったとき、それだけの器が自分にあるのか・・、思いあがっているのではないか・・・、自分の中で葛藤しました。
 いずれにしても人生の内で、また一つ、自分を見つめ直す貴重な体験をさせて頂きました。子供と話すときは子供目線で、そのとき初めて自分は、本当の意味で、そのようなことを感じた気がします・・・・・。

コロナ感染拡大と労働者としての誇り

 コロナ感染問題、縮小しませんね。そんな中、みなさんはいかがお過ごしですか?
今回のコロナ問題で、本音と建前、そういったものを感じる日々ですよね。緊急事態宣言が解除され、休業要請が解除され、自粛ムードが緩んだ瞬間から、東京では連日の感染者100人越え。東京都庁が赤くライトアップが終了し、展望台も再開、しかしその後にこのありさまです。東京で商売をなされている方は、特に個人経営の方は本当に大変なことと察します。
 私は毎日出される東京の感染者数には注目しております。やはり首都東京の感染者数が下がらないことには、日本からコロナウィルス感染はなくならないと感じるからです。
 それにしてもやはりこの日本、弱い立場の人に負担がのしかかるというシステムは、なかなか変わりませんね。今からの話しは、私が勤めている北上京だんご本舗の内部事情の話しではありませんが、平等というのは日常に無いのか・・・と感じずにはいられないのが感染が拡大による飲食店当の休業要請でした。
 コロナウィルス感染拡大を避けるため役所が休業要請を出す、それによって従業員は働けなくなる、生活が困ります。それをカバーする策として、会社は休業手当を、給料の6割以上は従業員に払わなければなりません。その給料を補てんするものとして、雇用助成金という制度があります。ところが労働局での手続きが簡単ではなく、その手続きをしない会社が多数あるといいます。また、最初に従業員には店を閉めていても、給料の6割以上は手当として払わないと会社に助成金が下りないしくみになっており、なおさらスルーする会社が多いと言います。
 知事、役所は、金は出すので休みなさい!と言いつつ、飲食店の労働者が路頭に迷うケースが起きても、それに対しての責任は負いません。しかしそういった指令を出している人達の収入は安定しています。ここにこそ、不平等という言葉が浮かび上がってきます・・・。
 それは知事、役所だけではなく、資本家と労働者という関係にも表れています。資本家と労働者じゃ立場は資本家の方が上じゃないか、不平等であって当然・・・、と、みなさんは思いますか? 私はそうは思いません。この社会を支えているのは汗水流して働いている労働者なのです。飲食店ならば実際にお客様と接しているのは労働者なのです。いやいや資本家は会社を維持継続させるために資金繰りをしたり大変なのだよ、誰からお金をもらっているの?と言われそうですが、今回のコロナ問題でも浮き上がってきたのは、経営を維持するために解雇等も起き、あまりにも社会を支えている労働者を、ないがしろにしているという点です。ですから労働組合としては、そういった労働者を放っておけない状況下にあります。
 ではこのコロナ下の売上で資本家は根本的にどのように収益を上げようとするのか?
本当は減収なのに増益という形をいかにして作るか?、それが私が以前にも行った人件費の調整になります。人件費は会社の損益計算表上は経費として計算され、経費の中で動かしやすいこの人件費を切り詰めることにより、減収でも増益としてしまうのです。ですから会社を維持するために解雇ということも起こってきます。また労働強化もおき、「前年より同じ時間で前年より売上を上げろ」という一般的に資本家や役職者が言う言葉につながっていきます。損益計算書の数字には、労働者から搾取し利益を上げるという構造が分かりやすく表れています。
 この構造が原点になり、現代の日本において、資本家は家族を持ち裕福になれても、労働者は一生かかっても家も建てられない・・・という状況を生み出しているのです。
私達労働者は・・・、このような構造、マクロ的に言えば非正規労働者が多くなっている社会構造において、「あまり馬鹿にするのではない!」と、本来は声を上げるべきだと私は思っています。会社に対しては経営状況を明らかにせよ!と言うべきなのです。
労働者は経営のことは知らなくていい・・・と、資本家に思わせてる状況を作っているのは、おとなしい私であり貴方かもしれません。経営のことに口を出さなくていい・・・ああそうですか・・・ということ会社で、不満を言っている方はいらっしゃらないでしょうか?口を出さなくていい・・・と言う言葉に、ただああそうですかと言っているだけでは、状況は変わらないのです。以前から私はそう感じていました。結果、一旦は懲戒解雇になりましたが。
 コロナ感染問題がある今、その影響で時間短縮労働等が浮き彫りになってきていますが、会社の宿命的な構造に物申さないと、状況は変わらないこと、そのようなことは、私自身がここ数年で体験してきたことです・・・。

9月入学案に潜む宮城県知事及び高3の方の内心

 前回、宮城県知事が言い出しっぺの学校の9月入学案について、知事に対する自分の思いを語りましたが、この件についてもう少し掘り下げたくなりました。というのも私自身もそういうところがあるのですが、とかく我々は現在の環境が物の考え方に反映され、それが元での思考が形成されているところがあります。コロナウィルス感染問題で学校が休校し、いつの間にか休校が普通の日常になり、それだったら感染の恐れがなくなるまで休校して、9月頃に入学や始業式をして、半年ずらした中で1年間の区切りを付けようという、それがいい案だ、そうすれば学習の遅れも解消できる、という考えが宮城県知事から生まれ、現状から生まれた思いから世間一般の大衆も、そういう考えに賛同し始めました。人の意識、物の考え方というのは現在の状況、環境に左右されやすいことがこの事例からも分かります。
 ここで思うことはその状況を分析することにより、実際にどうしたらいいか、本質の部分が見えてくるということです。私達はどうしても、状況からの思い付きで物事を判断する癖があります。しかし、そのような判断では非常に危険と言えるでしょう。
 宮城県知事が9月入学案を提案するその背景に何があるのか、地域落差がなくなり留学もスムーズになり国際化が進むという話しはあるものの、それに騙されてはなりません。知事の内心には何があるか、ここで掘り下げで考える必要があります。
 おそらく知事は1,2か月でコロナ問題がなくなるとは、この時点ではもちろん考えていません。しかしそれを終息させる対策論もないのです。治療薬もないわけですから。コロナ感染はすぐに無くならない、そうであれば斬新なアイデアを提案して全国にアピールしよう・・・、そういう気持ちが知事にあったのではないでしょうか?
 知事からなぜそういう発想が生まれるのか?、それは今、自分に小学生くらいの子供がいない、そのような状況から当事者的な感覚になれず、子供達全体を考えた発想ではなくなり、自分の個人的な願望から来る考えを公にして、通してやろうという考えが生まれたのではないでしょうか。本来、知事に求められるのは、いろいろな人の立場になり、物事を考えていくという客観性なのではないでしょうか? 9月入学案というのは子供のことを考えているように見えますが、実際、本当に考えているのか疑問に思います。学年の開始を半年遅らすということが9月入学案の根幹ですが、小学生の半年というのは大人の半年と時間的には同じですが、当事者から見れば本当に長いのです。年齢によっては半年で背丈も大きく変わる子がいます。自分の小学生時代を振り返ればすぐ分かります。6年間はすごく長く感じたのではないでしょうか?でも大人になってからの6年間はどうでしょうか?すぐにその差が分かることと思います。
 幼稚園&保育所、そして小学生時代、何でも吸収し自分の物とし、人格が形成されていく大切な時期です。その大切な時期に学習面だけ今までより半年も遅らせるのですか?ということなのです。しかも子供が過ごす半年は本当に長いのです。それで本当にいいのですかと。半年早めるならまだ理解できるところであります。しかしこういう考えを日本が実現するとなると、国際化が進むどころか世界から見て遅れを取り、置いて行かれることになるのではないでしょうか。また、9月入学を実行したところで感染の危険性はまったくなくなるわけではありません。万が一、感染拡大で、また休校になったらどうするのでしょうか?何でも吸収する年代の貴重な時間は取り戻せないのです。小学校入学ならば6歳で入学のところを6.5歳にしようという案です。知事は自分の娘さんある程度が大きくなっているので、保護者という当事者的な目線ではおそらく見れていないのでしょう。
 いい案だ、全国に提案する、しかし国民に対しては伺いをたてることもせず案を通して押さえつけて理解させるという、やり方を見ていると実に官僚的になっています。
 現在の状況から見て改善するということ、これは日常の企業の運営でも同じことだと思います。今回の9月入学案は、現状からズレた案であった、そのことを私達は見抜く必要があります。私の息子は中学生ですが、仙台市では小中学校に1人1台のタブレットが今年中に市から渡されます。渡されることになった意味合いは複数あると思いますが、今後もコロナ感染での休校の恐れは残ってますから、その対策として見るならば、公立の小中学校では画期的とも言えるでしょう。状況を正確に把握してどういう判断を下すか、仙台市の判断は正しいと言えるでしょう。この判断の以前からタブレット導入の話しは上がっていたようですが、今年中という計画が出されたのは状況から正しい判断がされ、その結果、導入計画も状況が反映され、新たな今年中の導入という計画が作られたのでしょう。
 ただし計画が実行され、今度は計画を実行して、次にまたその元で状況はどうだったのかということについて、見ていかなければならないでしょう。そしてそこで、次回導入するときは、ここをこうした方がいいとかという案が生まれるでしょう。
 宮城県知事はこういった一般的な、会社を存続させるための流れを知っているのでしょうか?実際に知っているかもしれませんが、しかし今回のこの発言を見ると、疑わしく思います。現実から出発した改革案とは程遠いからです。しかも地域落差を無くすと言っておきながら、自分が知事をやっている県内で、仙台市だけ小中学生にタブレット導入という落差が生まれています。知事はそのことは今、問題視すべき点なのです。そういった現実が起こるわけですから。
 ということで今まで知事のことを言ってきましたが、では9月入学案に賛同する一般の人の内心はどうだったのでしょうか? 簡単に言えばコロナ問題で学校には行けない、学習が遅れてる、それだったら9月入学案もありかな・・・という感染拡大という現象に振り回せれ、直感的で、それによってどういう現象が新たに起こるかということに対して、盲目になってしまったとも言えます。
 前々回、別なネットの場所で、9月入学案にちょっと待て的な意見を出したと私は言いましたが、その意見に高校生の方からも回答をいただきました。この高校生の子の回答は授業の遅れ、学習の遅れを感じている正に当事者でしたが、私の9月入学案に反旗を示したことに対して賛同してくれた、ということではなく、逆に私の意見にも反旗を示していたのです。コメントを見てみましょう。
「9月入学案に賛成する高校生で、小学生の弟がいます。子供当事者の目線として言わせていただきます。(中略)私だって早く学校に行きたいです。それは確かに当然ですが。現在はコロナウィルス感染爆発を防ぐ為に学校に行くことが出来ない期間なのです。いつ改善されるか見通しも立たない状況ですので、理由もなく半年自宅で過ごすのではありません。なぜ今、緊急事態宣言が出されているのか考えてください。そして、仮にコロナが収まって通常通り3月に終業式を迎える日程で学校が再開されたとして、休学中のブランクを取り戻す為に夏休み、冬休みはもちろん運動会や文化祭などの行事も中止となって、最悪本来部活動の為の時間さえも割いて勉強することになるでしょう。ただ勉強するだけの刺激がない学校生活が楽しいものになるのでしょうか?それならばいっそ、9月から再スタートを切って行事や部活動などもちゃんと行える様にしよう、という案なのです。学校に行きたいという息子様の意見は先述した通り同意しますが、感情論だけで学校再開ができる状況では無い、ということを理解して下さい。」
 高校3年生の方のようですが、文章から切実な思いが伝わってきます。自分の思いを語った立派な文章です。こういう思いを語ってくれて私はありがたく思いました。
 でもです、この高校生に対して、いい意見を言ってくれた、あなたは真面目で言い方ですね・・・とは私は返さなかったのです。いろいろな評価はあると思いますが、このような文章を打つ背景には何があるのが、そこのところをよく考えてみる必要があります。彼(彼女)は高校3年生。学校に行けない日々が続いている中で、もはや自分は高校3年生。高校生活は1年を切っているわけです。学校行事もこの先ろくに味わえず、さらに部活も中途半端で引退、そういう現実が予定通りの3月卒業であれば待ち構えているわけです。このまま勉強だけで高校生活を送って終わっちゃっていいのだろうか・・・、高校3年生ならば感じることでしょう。思い出が残せない・・・それはつらいことでしょう。
 しかし・・・、だからそれならばいっそ、9月から再スタートを切って行事や部活動などもちゃんと行える様にしようという案はいいですね、とはならないわけです。この子の言っている背景には、自分は高校生活を最後まで有意義に過ごしたい・・・という自分を中心とした思いがあるように感じます。誰だって高校生活は最後まで有意義に過ごしたいと思っています。当たり前の感情です。でも、その思いを通すことにより自分より下の世代がどうなるか、また4月新年度が基本の社会がどうなってしまうのか、という客観的な感情がこの子には見当たらないのです。それであたかも正論のように話しをまとめてしまっています。物事を良い方に改革するには、発言してる人の意見に振り回されることなく、その背景には何があるのか、そのような発言の根拠は何なのか、そこを見て意見を取り入れるか否か、考えていかなければならないでしょう。今、見るとちょっと厳しい返答になった感はありますがこの子、高校生には次のように返しました。
「今、日に日にこれを言ったら大変という現実がみなさん分かってきたようです。感情論になっているのは賛成する人です。単に学校だけで問題ではなく、新卒の就職時期も9月に合わせなければなくなります。社会構造が変わってしまうような話なのです。もともとこの話は宮城県知事の妄想から始まった話なのです。この手の報道もコメントもちょっとまずいんじゃないかというコメントが多くなってきています。‥中略・・あなたの思いが子供を代表した思いではないこと、客観と主観があるのですが、あなたは自分の思いが正しいと思う主観的な高校生さんだと思います。」
実はその後のやりとりがあり、高校生は私に対して「私が子供を代表した意見を述べてるといつ言いましたか・・・」となるわけですが、自分の思いが子供すべてに当てはまらないということで言ったわけですが、討論よりも、その件を言ったことはこちらが素直に謝っておきました。えっ、と思われるかもしれませんが、そこは重要な点ではないからです。ここで言っておきたかったのは、どのような展開過程を経て9月入学案が実現できるのか説明してほしい・・・ということです。それがなく、ただ主観的な思いで9月入学案に賛同、ということでは駄目だよ、というのは言っておかなければならないことだと思ったのです。
 9月入学案を出す、またそれに賛同する人、人の発言にはそのように発言する思惑、根拠があり、そこを見極めるため、発言に対して発言の中身を分析することは大切です。会議を定期的に行うというのはとても大切なことで、そのことはある程度の企業に勤めてこられた方なら身についています。北上京だんごの上司だって、それは知っています。問題なのは発言する相手方の立場になって、この人はどういうことでそのような発言をするのか、今、起きている表面的な現象だけで発言の意味合いを判断せず、本音の部分を掘り下げて、言っている真意をつかむことでしょう。人はどうしても自分へのこだわりがあります。そこからどうしても離れられません。相手がどう考えているのかという点を遊離する傾向があります。自分の思いの方が可愛いのです。見えている部分を安易に認証し、現実に起きている状況に染まり、この先、何が正しいのかという結論を出すときに、自分の思いを中心としたものを当てはめる計画を出しがちです。しかしその元での計画の実行は、危険性をはらんでいるとを私は思っています。

 相手の発言を分析し、間違った考えには指摘をする、それが相手に対する本当の優しさなのではないでしょうか? ですから会議で討論して指摘しあい、最善の案をみんなで決める、そこにこそ物事が良い方に向かう本質があり、そのような組織は、組織としての質は高いと私は思っています。現在はお互いに意見を出し合い対等に話し合って決める時代であり、女性でも対等に話す時代になりました。上から押さえつけて話すという昔の軍隊形式は過去のものとなりました。
 私はそういうことを職場では以前、感じており、労働組合の必然性というものも同時に感じていたのです。

子育て世代の当事者 から宮城県知事に9月入学案を問う

 今までのブログにおいて各々の記事が、内容において一貫性を貫いてきたこと、そのことを読者の皆様は感じ取って頂けたことと思います。このブログは北上京だんごの社内の状況を漏洩するものと捉えた方は、いらっしゃらないと思います。合同労組の分会長としての、個人で感じたことを日々ブログにしているものです。その中で解雇撤回闘争の真実は語ってきたわけですが、闘争の戦記のような感じで書いたものであり、社内、内部状況暴露とは異なります。真実でないことを長々書いたものだとしたら問題になりますが、私の体験した解雇撤回闘争の戦記であり、内容は真実です。ただし、その記事は全体的なブログ記事の中から見れば一旦に過ぎず、階級社会、落差社会の真実を一般の皆様にお伝えする意味で、私は書いたものであります。この階級社会、落差社会是正については、私が生きる上での1つのテーマです。人として生まれて権力に媚びて理不尽に暮らす、人が人を支配する、そういう社会は変えていかなくてはならないと私は感じています。本音と建前、それが履媚びるこの現代において、一石を投じるブログになれば、幸いと思っています。
 北上京だんごについてはいろいろと思うところはありますが、今回は2020年4月に宮城県知事M氏が言い出しっぺの9月学校入学案について、私が思うところを書いていきたいと思います。結局それは日々、会社内においても感じるところと通じるものはありますが・・・。
 2020年4月下旬、宮城県知事M氏はコロナウィルス感染を避けるため、休校している学校の入学、始業式を、9月にする案を全国に向かって打ち出しました。その時に言われていたのが次の言葉です。
「9月に合わせると、地域間の学力差がなくなり、海外留学や留学生の受け入れもしやすくなり、国際化に弾みがつく。」
 いやいや、何とも美談でまとめられた言葉です。しかし・・・、それに対し私はそういう策はどうかと4月の段階で異論を唱え、このブロブではないですが、ネットにその件に対し問題提起をしました。この問題は知事が自分のこととして感じ取る感性はあるのかと、疑問に感じたのが問題提起の発端です。コロナ問題で学校が休校になり、そのせいで学校に行けなくなり学習の遅れが問題なのに、知事は学校に行けない状況が続いているので、いっそのことこの機会に9月入学案を押し通すことに意義がある・・・と言わんばかの都合のいい解釈で9月入学案を押し通そうとしたのです。
 本来は学習の遅れに対して、そのような環境を変えていくことが筋であると私は思います。すでに私立の学校では行っているようですが、ネットによる授業を行える環境作り等、検討、やることはいっぱいあるはずです。しかしそのような環境にしていくことは、一朝一夕ではできません。よほど検討しないとそのような環境には変えられません。知事はそれよりも9月入学案という、誰もが度肝を抜くようなアピール性があり、面白みがある案を提起したのではないでしょうか?
 学習が遅れることに対しての環境整備はなかなか変えられない・・・、知事は現状を変えられないという固定観念で、そのことに対して放棄する感情はこの時点でなかったでしょうか? 問題の根拠はそこにあるのに、別の真新しい案を出し、その案を、それによってどんな社会的な混乱があるのかも考えずに押し通そうとするという、しかも1回ではなく何週間か前も9月案も考えた方がいい・・・という発言をしています。この宮城県知事は教育関係者の意見、父兄の意見も聞かず、上からの押さえつけで物事を実現させようとする、実に官僚的な方だというのを今回感じました。しかもこの9月入学案は学校だけの問題ではなくなるはずです。なぜなら世の中の新年度は4月だからです。ですから非常に危険な考えの知事だと私は感じました。
 しかし、4月の段階で私が知事の発言に対しネットで問題を提起したら、感染爆発のため学校に行けない、見通しが立たない、それならばいっそ9月から再スタートを切ってちゃんとやった方がいい、子供を学校に行かせられないという感情論だけで学校再開はできない、理解しろ等、私に対しての一般の方からのネットでの攻撃は凄まじいものがありました。そのような方々に私が言ったのは、今、日に日にこれを行ったら大変という現実がみなさん分かってきたようです・・・これは社会構造が変わってしまうような話なのです・・・という回答をしていきました。
「どのような展開過程を経て実現できるのか、説明してほしいです。でもそれは酷なのでいいです。ここ数年9月入学式の話しが出ても、社会構造上、越えなければならないハードルがあり、実際には行えないのです。感情論では物事の実現は不可能なのです・・・。」
とかく我々は思い付きでネットにて物を言う癖があります。木村花さんのネットでの誹謗中傷が原因の自殺等、社会問題になっていることではあります。追い詰めた方、相手側の立場に立ったことはあるのでしょうか? でもそれが一般の方ならは、私はその個人に対して物申すことはできません。誰なのか分かりませんから。しかし、県政の長であるはずの宮城県知事には、カッコ内のことは問いて行きたいのです。主観的な感情論だけで押し通していったら、大変なことになるということを話したいです。宮城県知事のM氏は自己の都合により発言を組み立てるのではなく、問題の根拠を掘り下げ、今回は児童・生徒が当事者になりますが、その当事者の立場から思考することをやって欲しかったと感じました。そうすれば何を最初にやらなければならないか、自ずと分かってくるはずで、9月入学案は、とても恥ずかしくて言えなくなるはずです。子供側に立ち、子供の日常性に理解していたか、また学校以外の組織の立場に立ち、そういった社会的な日常性に対し理解していたか、私は宮城県知事にはそういう要素が今後、求められると思います。大阪府知事も一時期9月入学案には賛同していましたが、大衆側に立ち日常性を理解するという点では、一回りも二回りも最先端を行っていました。それが大阪府民から指示を得ている根拠でしょう。
 宮城県知事M氏とは、選挙活動をしているとき、某区民祭りに現れ、その時、たまたま私もだんごを販売していたテントに顔を出し、写メに一緒に入ってくれたということが過去にありました。私はそういった庶民感覚の気さくなところはとても好感が持てます。しかし、今回の9月入学案を押し通そうという行動は、いかがなものかと感じました。
 仙台市では最近、小中学校に一人1台のタブレットを今年中に与え、オンライン授業の整備の方向に向かうかじを切りました。これは万が一、今後も休校になった場合を見据えています。でも県内で仙台市だけがそういう環境が構築されるだけでいいのでしょうか?
 そこいらへん、知事のM氏には状況を把握し、早急計画、実現させるための策を検討して欲しく思います。すでに目の前に地域落差の問題が転がっているわけですから・・・。

北上京だんご分会長がマンションの管理組合の理事長に

 ブログ、久々に更新します。最近、ちょっとした出来事がありました。私が住んでいるマンションの総会があったのですが、そこで私が住民組織で作る管理組合の理事長に推薦され、せっかく推薦されましたので、引き受けることに致しました。地域活動の一環として今住んでいるマンションの総会にも毎年出席し、住人とコミュニケーションを取ってきましたが、労働組合活動で養われた相手の側に立つという私の感性が、住民の方々も感じ取って頂き、前理事長からの推薦で理事長をやらせていただく運びになりました。
 解雇撤回闘争でも日頃の組合活動でもそうですが、「相手の立場に立つ」、この言葉は口先だけでなく、本当に実行しなければならないという思いで、ここ数年、活動をしてきました。解雇撤回闘争においても経営者は何を考えているのか、側近は何を考えているのか、北上京だんごの従業員は何を考えているのか、北上京だんごの取引先は何を考えているのか、大衆は何を考えているのか、相手からの立場で物事を考えていけば、自分がどう行動しなくてはならないか、必然的に分かるのです。端的に言えば、思いやりを持てとかそういう美談的なものではなく、闘争する相手方の身になって考える客観性が大事であり、そういうことを労働組合活動をしてきた身として感じています。
 私達はどうしても、この世に生を受け、生まれ育った環境や人生経験で作られた感性で、物事を考えてしまう癖があります。仏教でいう因縁因果の法則、私はあまり詳しくはありませんが、その人の持つ前世からの因縁によって、その人の持つ因により、その人の人格、物の考え方が形成される縁である環境が決まると言います。仏教にはそういう思想があり、その流れを変えないと駄目だ、そういう意味でメジャーなお経である般若心経があるといいます。因果応報という仏教の思想があり、それを変える道があるということで般若心経があると言われています。物質は空である。実態がない、水は低温度という縁・環境によって氷にもなる、そういうことが般若心経の中で言われているといいます。環境を変えることによって苦しみを無くす道がある、「無・苦・集・滅・道」、お経の中にもある言葉の意味がそこにあるということです。
 この般若心経から学べることは、運命を変えるのは環境を変えていかなくてはならないということではないでしょうか。ただそこで思うことは、ただ仏像に向かって手を合わせればいいという日本古来からある仏教のやり方では、何も変わらないということです。ですから日本の仏教は欠点がある問うことでしょう。般若心経にせっかくそういういいことが書いてあるのに、ただ手を合わせれば幸せになれる、成仏できるという考にはやはり欠点があることを感じてしまします。私がそのようなことが言えるのは、そういった仏教系の大教団の信者ではないからです。
 やはり環境を変えるという実践的なことがなければ、物事は変わっていかないものだと私は思います。そのような努力の上で手を合わせるなら私は何も言いませんが・・・。
 そこで重要になってくるのが、これまでの自己の形成過程の中で作られた感性を土台とした主観ではなく、相手側か見た場合どうなるか分析をし、組み立てていく客観性であるのです。その客観性を把握するのが、活動という実践です。その実践を行うことにより感性的認識から理論的認識へと変わっていきます。そしてその認識を土台とした再実践が行われるようになります。そのようなサイクルにより本当の現実が分かり客観に近づいていきます。この過程において、本来持っている主観的な認識が変わり、現実が変わっていくようになるわけです。
 私はこのようなサイクルを指針に組合活動を行ってきました。ただ実践して把握したことの分析はもっと鍛えないと駄目だというのは自分で感じています。私が優れた人間であれば北上京だんご分会はもっと変わっていたはずですから。
 今回、今、住んでいるマンションの管理組合の理事長にならせて頂いたわけですが、住民が一体何を考えているのか、それに対して私はどういう行動を取らなければならないのか、正にそのような考えのもとで理事長をさせて頂きたいと思っています。今まで、少しでも私のそういう考えが住民にも伝わり推薦されたことはありがたく感じます。やはり地域活動をする上で個人的な信頼は欠かせません。口だけの「相手の立場に立つ」ではすぐに相手に見破られます。
 労働組合活動においても、分会長としてもっと人に信頼される自分を目指したく、謙虚に客観状況の分析、把握、判断、そして計画を立てていきたいと自分に言い聞かせています。

子育て世代、杉村太蔵氏の発言から北上京だんご分会長が思うこと

 本日はTBSサンデージャポンにて、杉村太蔵氏の、国民一人当たり10万円一律給付に異議ありの発言が話題になっています。

 私のブログはいつも文章が結構長くなり、内容的にも気軽に読めないようになっていること、少し反省したく思います。ただ、自分的には労働組合に絡んで、これくらいのことは感じているというのがあって、それは日頃、口に出すことはないので、文章にて長々と書いてしまいました。とにもかくにも私は懲戒解雇され、裁判闘争に勝利し、職場に戻ったという異質な存在です。私のような人は、そんなに多くないと思うんです。ですから書けることは書いておきたいというのがありました。普段は何も考えてないような私ですが、でも少なくともこれまで文章に表したことは頭にあり解雇撤回闘争の末、職場に復帰したというのがあったのです。

 今日はテレビを家族で見ていたらTBSのサンデージャポンでの、杉村太蔵氏の発言が気になりました。確かに子供が3人いれば、国民一人当たり10万円一律給付ですから50万になり、杉村氏が言う通り「派遣切りにあった、収入が半分以下になった、そういう派遣の方は残念ながらなかなか結婚できない一人暮らしの人が多い。こういう方は10万円なんです。公平なようで、強烈な格差を生み出す。」

 これはなるほど、子育て中の私から見てもごもっともな発言です。私自身、落差社会について問題視する気持ちはあります。今までのブログの中でもそれは意識して書いてきました。特に結婚できない一人暮らしの方について、そのような社会を生んだ日本について、問題視することを私は気持ちの中にあります。

 ただ一つ思うことは、一生結婚しなくてもいいと思う人も増えたということです。私はそれはそれでも問題だと思っています。結婚しなくてもいいという人が増えた上での社会構造になりつつあります。政府にしてみてば派遣社員制度を生み出し、家族を持つことよりも個人で楽しむこと、その方向に若者に対して見事に目を向けさせたこと、私から見れば、政府に見ればハメられたという見方もできるのです。

 政府のお役人は誰もが結婚しています。そんなことお役人の世代ではあたりまえだったはずです。結婚して子供を持つことによって、自分を成長させた部分も大きかったと思うんです。それなのに労働者よりも資本家の方に目を向け、派遣社員契約社員を作ってしまい、しかもそれで私はいい、という人間も作ってしまった政府の罪は大きいと思います。自分たちは結婚していますよね?、結婚して得られた良さが分かりますよね?でも派遣社員を容認するんですか?と、私は言いたいのです。

 ですから杉村太蔵氏の発言、的を得ていると思いました。

 が・・・、家族を持ったものからの見解も私はあります。杉村氏も本当は感じていることだと思います。杉村氏の家族は5人といっても大半が扶養のはずなんです。杉村氏が稼いでも自分一人だけのために使うのではないと思うんです。現在、学校が休校していますから、今、言われているのが食費の増大の問題です。そういったことは家庭を持たないとピンとこないでしょう。論点がズレていると言われるかもしれません。主観的な話しととらえられるかもしれません。でもここは個人のブログの場です。扶養家族がいる世帯の不安解消も、私は必要なことだと思います。自分の身を守るだけではないんだと。自分と扶養家族を守らなくてはならない人もたくさんいるんです。怒られるかもしれませんが、独身の方が考える感覚とは全く違うのです。独身の方からすれば客観性のない話しが、実は現実問題としてはあるわけです。それは理解して欲しいと思いますし、杉村氏自身が大衆受けにそんなことは言うべきではなかったと私は思います。

 派遣切り遭い、困っている人、それは私も問題視したいところです。しかし、結婚して家族を養っているが受け狙いにそんなことは言ってほしくないというのも私にはあります。相手側から見て物事を考えるというのは大切ですが、そこには一方に偏ることなく客観性がないとダメだと思います。派遣切り遭い、困っている人、家族を養わなければならない人、立場は大きく違うんです。そのことを杉村氏には言って欲しかったです。そうでなければ、私は独身だから10万だけでは不公平と思う人も多くなると思います。

 このような状況、また独身でいいやという人の増大を生んだ国、政府に対し、私はいかがなものかと思っています。

 以前、お話しをした通り、私は独身の期間も長かったわけで、独身の時は独身の方がいいと思っていました。しかし家族がいた方が地域活動はやりやすくなるし、やはり家族を持つべきだというのが私の持論です。ただ家族を持つ者同士というような、偏った人間関係は持たないようにしています。それでは客観的に物事を見れなくなりますから。

 いや、まだまだ私は広い目で見ることが足りないと思ってます。まだまだ成長過程です。だから労働運動においても、もっといろいろと経験しなければならないことはあると自分で感じています。

営業部に席再び・・・労働運動をする同志、佐野SAのKさんは?

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 もう一度載せてしまいました。解雇期間中に撮影した仙台の街並みが見える神社の高台から撮影した、桜が入った仙台の街並み。実質無職状態の私には、2017年の桜の季節は寂しい春の訪れでした。この日、平日でしたが、遠くに見える高層ビルの中の人達は忙しく働いているのでしょうか?それに比べ私は平日の昼間からジョギングをし、桜の撮影・・・。仕事をしていると早く定年を迎えて、のんきに気ままに過ごしたいと感じるときが、それまで何回もありました。でも実際にまだ定年はまだ先の年代で、同年代はまだ労働に励んでいる日々。そう思うと切なく感じてくるのでした・・・・。日が当たってない桜は私の感情を表していました。

 しかし、この時の思いがあるからこそ、戻ってだらけた気持ちで労働をするのは絶対禁物、という感情が生まれました。私は労働者として社会を支えているということにどれだけ誇りを持っていたのだろう・・・日常、不満はあったけど、人から見たときどれだけ質の高い労働をしていたのだろう・・・、労働ができるありがたみ、また労働によって社会を支えている誇り、それを私は忘れていたことにこの時、気づきました。

 そして2018年の職場復帰の年と2019年、初もうではこの仙台の街並みが見える神社でした。解雇中、何度もジョギングで登った神社に向かう石段、その時は険しく感じた石段も、初もうでではすんなり登れるのを感じました。それだけ気持ちも前向きになり、職場に新しい風を吹かせたいという思いでいっぱいだったのでしょう。

 2018年は1月に職場復帰しながら原職復帰の闘争は続き、合同労組の力でついに2019年、会社の営業部の部屋に入れました。職場復帰させたと労働委員会には伝わっても、直営売り場の販売員となり会社の自分の席にも満足に付けない状態・・・、この状況をみなさんはどう感じますか? 会社側は何も変なことしてないよ、と主張できるのでしょうか? しかしこの状況、傍から見たらどうでしょう・・・。異様に映るのではないでしょうか?

 労働者とのやり取りの中でも組合活動的なことを、勤務中にすることはありません。また特段、問題な行動を起こすこともありません。ですから営業部の席に付かせないように付かせないようにとする会社の行動にも、意味は本当は無いわけです。でもそういう状況に持って行くのには、何か思惑があったのでしょう。

 2019年4月、営業部の部屋に足を踏み入れ落ち着いてあたりを見渡すと、高い天井、壁に掛ったホワイトボード、ほとんどが2年前と同じ営業部でした。そして一般の労働者は私に普通に接してくれました。解雇撤回闘争中、裁判等で、分会長が戻るのを労働者は嫌がっているといった話しとあまりにも違う状況でした。ここ2年のあまり、労働者におべっかを使ったつもりはありません。でも、労働者として解雇されても、あるべき姿は示してきました。定期的な組合のビラ巻きも解雇されてからずっとやっていました。ですから労働者は私にとっていつも身近な存在でした・・・。

 

 解雇撤回闘争・・・、同じように活動をやりながら解雇され、解雇撤回闘争をやっている方がおります。佐野サービスエリアの部長であったKさんです。マスコミの報道で実名も出し、有名になった方です。私は彼の内心が痛いほど分かります。この感情は当事者にはぐっとくるものがあります。第三者には推測できても、体験して精神にグググ・・・っと来る思いは、頭で想像する以上に鎬を削る闘いです。私はKさんには本当にガンバってほしい・・・、同じ労働者として連帯したいくらいです。他の組合だからといって放って置けない心情です。私が復帰できて、あんなに金も使い果たしてガンバっているKさんが、復帰できないなんてなったら、私はいたたまれません。

 問屋を通してで、顔は合わせてないのですが、北上京だんごの冷凍ずんだ餅が、売り場に置いてあったという話しもあります。実際に東北道の広範囲にお土産品として北上京だんごのずんだ餅は置いてあり、東北を代表する人気の名菓にもなってますから、信ぴょう性のある話でもあります。

 またKさんは宮城のご出身のようなので、北上京だんごのずんだ餅には縁があるのではないかと思われます。

 ですから私は陰ながらエールを送らせていただきます。これからの時代、ますます会社の利潤追求のあまり労働者の搾取が強くなる傾向にあります。そうしないと利益の少ない中、新し設備投資ができないという構図もあります。そこで労働者は企業間をこえて、総労働を作る方向に行かなければならないと感じます。そういう風に労働者どうし、団結しなければ資本家の思うままにこの日本が突き進んでいくことになります。結果、収入がないので結婚もできない、子供が生まれない、子育てができる楽しさが経験できない人が増える、地域コミュニケーションがなかなか形成されない・・・といった悪循環が起きてしまいます。

 私は労働運動というものに対して、大衆のためにという思いは同じ労働運動をする者と同じように持っていますが、労働運動の大切さは、私の場合、日常の生活からの実体験でわき起きてきたという部分も大きいのです。

 大衆を愛するということは、日常生活を捨ててそのような活動をする、それであれば矛盾が生じると私は思っています。日常生活をしっかりやった中から大衆を愛するという真の言葉が出てくると思うんです。また労働者を愛するということも同じです。労働者の中に等身大で入らずに、何で労働者のために活動ができるのか、労働者を愛せるのか、と思います。ここのところは非常に大事なところだと思います。

 解雇撤回闘争に勝利し、原職復帰し、これから私はどう進むのか、暖かい目で見守っていただければ幸いです。これまでの職場復帰の道のりの中に絡めて文字化してきた話の中には、大切な話しが込められています。これからこのブログはどんなブログになっていくか、私も検討中です。でも、これまでの内容は後世に残しておきたいということを意識しながら、文字打ちをしてきました。労働組合は宿命的な会社の思惑に流されてはなりません。私も営業部の席に着けた!、それで活動が終わってしまうような感情は持っていません。ですからこれからも、労働者階級として、誇りを持ってブログを更新していきます。みなさん、これからも宜しくお願いします。