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休校時の子供たちの心身と状況に対処する政府の力量

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 コロナ禍で3か月もの間、長期休校を余儀なくされた子供たち。最近、報道に出ていたのですが、NTTデータが2年間の生徒・学生の学校に関するツイート約4億件を分析したところ、6月学校が再開して以降、「疲れ」「だるい」といった投稿が急増していることが分かったそうです。突然の一斉休校、部活もない自粛期間が長く続き、学校が再開し、しかし今度は夏休み期間も短くなった今、深刻なストレスにさらされている子供たちがいる、見守り、対応する必要があるだろう、簡潔に言うと、そのような内容が報道されています。

 私は自分の中で心配されていたことが、現実に起こってしまった・・・と感じています。本来であれば様々な体験をして成長していく子供たちが、3か月も自宅待機させられてしまったこと、この事実を私達は重く感じなければならないのではないかと思っています。

 いやいやそんなこと言ったって、感染から子供を守らなければならなかった・・・、休校は当然という方もいるでしょう。

 以前、お話したことですが、私は2月下旬に子供を長期学校に行かせないことに対して、単に子供を休ませればいいという感覚に対し、問題視したことがあります。そのことを語った記事は次のここ↓を開いていただければ見れます。

 

morinomiyakotyanneru.hatenablog.jp

  私がなぜ長期、子供を休ませることに対して異論を唱えたのか? ということに対して、根拠の部分をこれからお話しします。子供自身の問題として、実は思うところが多々あったのです。

 子供を感染から守る、その元での休校になったわけですが、一面的には感染対策として最良の方法と言えます。しかし政府がそのようなことを決断したその背景には、何があるのでしょうか? 学校が休校に入ったのは3月初旬でした。その時期と言うのはまだ2020年にオリンピックが開催される前提の下での動きがあり、安倍首相もコロナ感染撲滅には必死だったと言えます。その思いが顕著に表れたのが、学校一斉休校だったのではないでしょうか。

 この決断に関しては、誰もが度肝を抜いたはずです。そこまでほんとうにやるの!?と。そういった力強い決断には、オリンピックを何としてでも開催という執念を感じてしまいます。今年に入ってそのことが前提にあり、判断の遅れが起こってしまった事例が多々あったのではないでしょうか?

 子供を自宅待機させる、このことについて、それによってどんな問題が起きるのか? それに関しても以前少しブログで書きました。

 

morinomiyakotyanneru.hatenablog.jp

 労働組合の分会長としての観点からの話しが主体になっていますが、ただ、それだけではなく、私は学校に行かなくなることが日常になることにより、心身の変化、また不調について、心配していたところがあります。というのは私自身、1年半もの間、会社から懲戒解雇され家にいる時間が長かった時期がありました。復帰する強い意志があったため、別なところで務めたりすることもありませんでした。そういう行動を取ると、実際の職場復帰にも不利になるからです。

 しかし、職場に毎日、行かない生活は、心身の変化を1か月で自分でも感じることとになります。これはいかんと思い、節度ある生活を心がけ、図書館の閲覧スペースに1日中いて新しいことを吸収しまくったり、でもそれでは体力の方が落ちるので、定期的なジョギングもその時期に始めました。

 そのとき感じたのは、人間、常に何かに打ち込む姿勢がないと、精神が堕落し、また体力も落ち、体調も不調になっていくということでした。それまでは、なんとなくそのようなことは言葉では分かっていましたが、実際に自分が職場に行けないことを体験し、1か月でこれでは駄目だ、自分が駄目になってしまう・・・と感じたのです。

 正にそのことを感じたのが1か月目でした。ですからそのような私の体験から、子供たちを夏休みよりも長い期間、学校に行かせない、部活もさせない、塾も自粛、などという制限を与えてしまうのは本当に心配だったのです。今、初めてその思いを明かすことになりますが。

 大人だって3か月も職場を離れれば、感覚を取り戻すのに大変なはずです。それを平然と子供たちにやらせてしまうのか・・・、本当にそれで子供たちの心身は大丈夫なのか?、そう私は学校休校が決まり、また長引くにつれ、思っていたことなのです。

 そんな私でしたので、半年間も学校に行かせない事態を引き起こす9月入学案は大反対でした。子供たちのことを考えているようで考えていない知事もいかがなものかと思っていました。知事の内心には何があるのか?その内心を分析した話しは下記↓を開いてください。

morinomiyakotyanneru.hatenablog.jp

 

 子供たちを半年もの間、学校に行かせないという9月入学案は消滅して本当に良かったと思います。学校を休校する際に私が安部総理大臣に申したかったことは、決断する背景があるのは分かるが、児童・生徒のことが良く分かる専門家に、それを行ったときに生じる問題について、よく聞くことが大切だったのではないかということです。また、9月入学案を打ち出した宮城県知事、それに共感を示した東京都知事大阪府知事も同様です。こういう問題が生じるかもしれない・・・スクールカウンセラー等の人の話しに共感していく・・・、決断を出すときに、いやまて、専門家に話しを聞く、その当事者の気持ちに寄り添う、私はそこに、一般大衆が大臣を評価するか否かのキーポイントがあるように思います。実際にそういう姿勢に欠ける部分があるので、アベノマスク等を見ても政策がズレているように感じてしまうのです。

 実際に人の話しに共感できるかは、それこそ人の要素にも絡んできます。

 そして判断に自分を取り巻いている背景があるならば、その背景を重視して考えるか、それとも道理を通す行動ができるか、そこにその後の状況の変化が隠されていると思います。

 緊急事態宣発令、休業要請、学校休校、それを経ても7月末時点で、逆に感染拡大が心配される状況になっている現実は、解決しようという思いの中に解決するための分析、専門家の話しに共感する心、さらに分析していき本当に良い状況を生み出していくこと、そのような行動が安部首相にも足りなかったのではないか・・・と感じてしまいます。そういう行動が安部首相に見えてきたとき、我々は安心感が生まれ、首相に期待の念が生まれものと思います。

 学校休校は今どうのこうのといっても、結果的には終わったことではあります。おそらく全国一切休校は今後、起こりえないでしょう。学習の遅れ等も含め、マイナスの部分、その代償があまりにも大きかったという現実が残されたからです。また感染が拡大したからといって今、全国一律に休校しても感染が収まる見込みも見いだせないため、休校する意味がなくなってしまっています。

 今、子供たちがマスクをしながらでも学校に通う日常が再開し、感染が収まる見込みはないものの、良かったと私は感じています。ただ思うことは、長期休校により3か月も学校に生かせない状況を大人たちが作ってしまったこと。それにより心身の不調を訴える子供がいたこと、この事実は重く受け止めなければなりません。

 今回のコロナ禍において、物事の考え方が現実から出発しないと駄目だということ、また、本音と建前が履媚びる日本であること、そのことが浮き彫りにされてしまったことで、私達が考えさせられることが多かったということです。

 

秘かに受講していた子供の里親研修

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里親研修修了証書



  子供たちは大人気のアンパンマンです。やなせたかしさんは晩年、ステージに立ち、子供たちの前で自らも加わったアンパンマンショーを行っていました。80代になっても身軽さを失わず子供たちを喜ばす姿の背景には、いろいろな積もる思いがあったのでしょう。

 今の時代、家庭を持つのが必ずしも普通という時代ではなくなったこと、その中で子供を産む、それは、同じ年代であっても全く違う人生を歩むということになるということです。私は子供が小学生に入った時点で、小学校の父親有志で作るおやじ倶楽部に入りました。父親どうしが協力し合いが自分の子供以外ともふれあうという機会を設けた、自分にとって面白く活動させていただいた会でした。
 ただその会で数年やっているうちに、子供も持てない人たちもたくさんいるのに・・・と思うようになりました。自分は幸いなことに家庭を持てて子供もいる、でも今の時代、ここまで来るのも困難なのではないか・・・と思うようになりました。非正規労働者の増大、それは女性だけでなく男性の非正規労働者も多くなっています。非正規ということはローンが組めない等の問題もあり、持ち家を購入できないということに発展していきます。私の地域では分譲マンションにいる家庭が多かったのですが、もはや家庭も持てて持ち家も持てて、それはもう勝ち組の部類に入るのではないでしょうか? ですから中古マンションとはいえ私も持ち家は一応あるのですから、私のその部類に入るということになります。
 しかし・・・世の中にはそうでない人の方が多いのでは・・・、そういうことはその時から感じていたことです。同じ日本に生まれ、本来であれば平等に生きなくてはならないのに、なぜこんなに落差が生じるのか?、おやじ倶楽部に集まるお父さんたちが一般大衆から見て大多数、とはどう考えても思えませんでした。大企業より中小企業の方が多い日本です。その中小企業は今、もうかっている方が稀です。必ず労働者の搾取の方に走っています。
 子供食堂というのが最近はいたるところにできましたが、本当に今の時代を象徴していると私は思います。おやじ倶楽部で活動していたころはまだ、子供食堂はメジャーではありませんでした。そんな中で、市政だよりの里親講習への参加の呼びかけを私は目にすることになります。その時、私は、これだ!と思いました。今の時代、裕福な家庭に育った子供たちだけではないという、そのような環境とは別の次元で育つ子供たちもいる、そのような子供たちはどんな表情をしているのだろう・・・、そう感じたのです。 

 そして、実際に里親講習を受講するため、ついに申し込みをしていました。でも私の奥さんは賛成、というスタンスではありませんでした。「いったいあなたは何を考えているのか・・・」という感じでした。
 やはりそれが一般的な感覚なのでしょうか? 自分の子供に愛情を注ぐのは当たり前のことです。でもそのような心で、様々な環境を経験してきた子供たちにも同じような愛情を注げられないのだろうか・・・、という思いが私にはあったのです。
 でもそれは自分がそうだと思い込み、それに酔いしれているのではないか、そうも思うようになりました。そこで自分の子供に対する思いを見つめなおすため、そして本当に里親にもなるということも、その時、考えました。もう8年も前のことになるんですね。
 期間は約3か月だったと思います。児童相談書での講義、これに関しては実はあまり覚えていません。印象的だったのがやはり、児童養護施設に研修に行ったときのことでした。
 そこは住宅というより一つの学校のようでした。でも教室はなく、何人かで過ごす個別の住宅という感じではあるのですが・・・。その施設の中で、いろんな年齢の子供たちと触れ合う機会が持てました。
 年齢にして小学校入学前の、園児くらいの子供たちと接する時間もありました。驚いたことに、そこは普通の幼稚園、保育園と変わらない光景があり、子供たちも何ら変わりない雰囲気でした。そのような光景を見て、私はなぜかその時ホッとしました。違った光景だとしたらどうしよう・・・という思いがあったのかもしれません。人懐っこい子供が多く、それも意外だったのですが、でも、そういう行動の背景には何があるのか・・・、そうも考えました。それを思うと涙が出そうでした。でも・・、そんな風に主観的に思うのは間違っていると言えるでしょう。「恵まれない子供に愛の手を」なんて言って街頭で募金活動をしている人達を昔、見かけたことがありますが、恵まれない子供はどういう状況?ってその時、私は思いました。恵まれないという決めつけ、そういうレッテルを貼るのか、ということになります。ですから涙が出るなんて、自分はまだ感情に流されやすいな・・・と思いました。児童養護施設の職員さんたちは、みんな生き生きと子供に接していました。そしてちょっとの子供の感情の変化を見逃していませんでした。里親にもしなったら、自分はそのようにできるのか・・・ということで、本当に考えさせられました。
 里親講習も終わり、画像のように講習、研修を受けた証が残りました。高給とは縁がない私ですが、でも家庭を持てて、持ち家も持てて、ある意味裕福な部類に入る私が、自分を見つめ直すための3か月の異世界での学習と旅は終わりました・・・。
 申請すれば里親にも本当になれたのですが、でも、妻はそこまでは認めてくれませんでした。他人の子供を愛すること、そのような器には自分はなれない、あなたも表面的に思っているに過ぎない・・・、そういう評価でした。でもそれは正解だったのかもしれません。いくら綺麗ごとを言っていたって、現実に愛情を注がなければならなくなったとき、それだけの器が自分にあるのか・・、思いあがっているのではないか・・・、自分の中で葛藤しました。
 いずれにしても人生の内で、また一つ、自分を見つめ直す貴重な体験をさせて頂きました。子供と話すときは子供目線で、そのとき初めて自分は、本当の意味で、そのようなことを感じた気がします・・・・・。

9月入学案に潜む宮城県知事及び高3の方の内心

 前回、宮城県知事が言い出しっぺの学校の9月入学案について、知事に対する自分の思いを語りましたが、この件についてもう少し掘り下げたくなりました。というのも私自身もそういうところがあるのですが、とかく我々は現在の環境が物の考え方に反映され、それが元での思考が形成されているところがあります。コロナウィルス感染問題で学校が休校し、いつの間にか休校が普通の日常になり、それだったら感染の恐れがなくなるまで休校して、9月頃に入学や始業式をして、半年ずらした中で1年間の区切りを付けようという、それがいい案だ、そうすれば学習の遅れも解消できる、という考えが宮城県知事から生まれ、現状から生まれた思いから世間一般の大衆も、そういう考えに賛同し始めました。人の意識、物の考え方というのは現在の状況、環境に左右されやすいことがこの事例からも分かります。
 ここで思うことはその状況を分析することにより、実際にどうしたらいいか、本質の部分が見えてくるということです。私達はどうしても、状況からの思い付きで物事を判断する癖があります。しかし、そのような判断では非常に危険と言えるでしょう。
 宮城県知事が9月入学案を提案するその背景に何があるのか、地域落差がなくなり留学もスムーズになり国際化が進むという話しはあるものの、それに騙されてはなりません。知事の内心には何があるか、ここで掘り下げで考える必要があります。
 おそらく知事は1,2か月でコロナ問題がなくなるとは、この時点ではもちろん考えていません。しかしそれを終息させる対策論もないのです。治療薬もないわけですから。コロナ感染はすぐに無くならない、そうであれば斬新なアイデアを提案して全国にアピールしよう・・・、そういう気持ちが知事にあったのではないでしょうか?
 知事からなぜそういう発想が生まれるのか?、それは今、自分に小学生くらいの子供がいない、そのような状況から当事者的な感覚になれず、子供達全体を考えた発想ではなくなり、自分の個人的な願望から来る考えを公にして、通してやろうという考えが生まれたのではないでしょうか。本来、知事に求められるのは、いろいろな人の立場になり、物事を考えていくという客観性なのではないでしょうか? 9月入学案というのは子供のことを考えているように見えますが、実際、本当に考えているのか疑問に思います。学年の開始を半年遅らすということが9月入学案の根幹ですが、小学生の半年というのは大人の半年と時間的には同じですが、当事者から見れば本当に長いのです。年齢によっては半年で背丈も大きく変わる子がいます。自分の小学生時代を振り返ればすぐ分かります。6年間はすごく長く感じたのではないでしょうか?でも大人になってからの6年間はどうでしょうか?すぐにその差が分かることと思います。
 幼稚園&保育所、そして小学生時代、何でも吸収し自分の物とし、人格が形成されていく大切な時期です。その大切な時期に学習面だけ今までより半年も遅らせるのですか?ということなのです。しかも子供が過ごす半年は本当に長いのです。それで本当にいいのですかと。半年早めるならまだ理解できるところであります。しかしこういう考えを日本が実現するとなると、国際化が進むどころか世界から見て遅れを取り、置いて行かれることになるのではないでしょうか。また、9月入学を実行したところで感染の危険性はまったくなくなるわけではありません。万が一、感染拡大で、また休校になったらどうするのでしょうか?何でも吸収する年代の貴重な時間は取り戻せないのです。小学校入学ならば6歳で入学のところを6.5歳にしようという案です。知事は自分の娘さんある程度が大きくなっているので、保護者という当事者的な目線ではおそらく見れていないのでしょう。
 いい案だ、全国に提案する、しかし国民に対しては伺いをたてることもせず案を通して押さえつけて理解させるという、やり方を見ていると実に官僚的になっています。
 現在の状況から見て改善するということ、これは日常の企業の運営でも同じことだと思います。今回の9月入学案は、現状からズレた案であった、そのことを私達は見抜く必要があります。私の息子は中学生ですが、仙台市では小中学校に1人1台のタブレットが今年中に市から渡されます。渡されることになった意味合いは複数あると思いますが、今後もコロナ感染での休校の恐れは残ってますから、その対策として見るならば、公立の小中学校では画期的とも言えるでしょう。状況を正確に把握してどういう判断を下すか、仙台市の判断は正しいと言えるでしょう。この判断の以前からタブレット導入の話しは上がっていたようですが、今年中という計画が出されたのは状況から正しい判断がされ、その結果、導入計画も状況が反映され、新たな今年中の導入という計画が作られたのでしょう。
 ただし計画が実行され、今度は計画を実行して、次にまたその元で状況はどうだったのかということについて、見ていかなければならないでしょう。そしてそこで、次回導入するときは、ここをこうした方がいいとかという案が生まれるでしょう。
 宮城県知事はこういった一般的な、会社を存続させるための流れを知っているのでしょうか?実際に知っているかもしれませんが、しかし今回のこの発言を見ると、疑わしく思います。現実から出発した改革案とは程遠いからです。しかも地域落差を無くすと言っておきながら、自分が知事をやっている県内で、仙台市だけ小中学生にタブレット導入という落差が生まれています。知事はそのことは今、問題視すべき点なのです。そういった現実が起こるわけですから。
 ということで今まで知事のことを言ってきましたが、では9月入学案に賛同する一般の人の内心はどうだったのでしょうか? 簡単に言えばコロナ問題で学校には行けない、学習が遅れてる、それだったら9月入学案もありかな・・・という感染拡大という現象に振り回せれ、直感的で、それによってどういう現象が新たに起こるかということに対して、盲目になってしまったとも言えます。
 前々回、別なネットの場所で、9月入学案にちょっと待て的な意見を出したと私は言いましたが、その意見に高校生の方からも回答をいただきました。この高校生の子の回答は授業の遅れ、学習の遅れを感じている正に当事者でしたが、私の9月入学案に反旗を示したことに対して賛同してくれた、ということではなく、逆に私の意見にも反旗を示していたのです。コメントを見てみましょう。
「9月入学案に賛成する高校生で、小学生の弟がいます。子供当事者の目線として言わせていただきます。(中略)私だって早く学校に行きたいです。それは確かに当然ですが。現在はコロナウィルス感染爆発を防ぐ為に学校に行くことが出来ない期間なのです。いつ改善されるか見通しも立たない状況ですので、理由もなく半年自宅で過ごすのではありません。なぜ今、緊急事態宣言が出されているのか考えてください。そして、仮にコロナが収まって通常通り3月に終業式を迎える日程で学校が再開されたとして、休学中のブランクを取り戻す為に夏休み、冬休みはもちろん運動会や文化祭などの行事も中止となって、最悪本来部活動の為の時間さえも割いて勉強することになるでしょう。ただ勉強するだけの刺激がない学校生活が楽しいものになるのでしょうか?それならばいっそ、9月から再スタートを切って行事や部活動などもちゃんと行える様にしよう、という案なのです。学校に行きたいという息子様の意見は先述した通り同意しますが、感情論だけで学校再開ができる状況では無い、ということを理解して下さい。」
 高校3年生の方のようですが、文章から切実な思いが伝わってきます。自分の思いを語った立派な文章です。こういう思いを語ってくれて私はありがたく思いました。
 でもです、この高校生に対して、いい意見を言ってくれた、あなたは真面目で言い方ですね・・・とは私は返さなかったのです。いろいろな評価はあると思いますが、このような文章を打つ背景には何があるのが、そこのところをよく考えてみる必要があります。彼(彼女)は高校3年生。学校に行けない日々が続いている中で、もはや自分は高校3年生。高校生活は1年を切っているわけです。学校行事もこの先ろくに味わえず、さらに部活も中途半端で引退、そういう現実が予定通りの3月卒業であれば待ち構えているわけです。このまま勉強だけで高校生活を送って終わっちゃっていいのだろうか・・・、高校3年生ならば感じることでしょう。思い出が残せない・・・それはつらいことでしょう。
 しかし・・・、だからそれならばいっそ、9月から再スタートを切って行事や部活動などもちゃんと行える様にしようという案はいいですね、とはならないわけです。この子の言っている背景には、自分は高校生活を最後まで有意義に過ごしたい・・・という自分を中心とした思いがあるように感じます。誰だって高校生活は最後まで有意義に過ごしたいと思っています。当たり前の感情です。でも、その思いを通すことにより自分より下の世代がどうなるか、また4月新年度が基本の社会がどうなってしまうのか、という客観的な感情がこの子には見当たらないのです。それであたかも正論のように話しをまとめてしまっています。物事を良い方に改革するには、発言してる人の意見に振り回されることなく、その背景には何があるのか、そのような発言の根拠は何なのか、そこを見て意見を取り入れるか否か、考えていかなければならないでしょう。今、見るとちょっと厳しい返答になった感はありますがこの子、高校生には次のように返しました。
「今、日に日にこれを言ったら大変という現実がみなさん分かってきたようです。感情論になっているのは賛成する人です。単に学校だけで問題ではなく、新卒の就職時期も9月に合わせなければなくなります。社会構造が変わってしまうような話なのです。もともとこの話は宮城県知事の妄想から始まった話なのです。この手の報道もコメントもちょっとまずいんじゃないかというコメントが多くなってきています。‥中略・・あなたの思いが子供を代表した思いではないこと、客観と主観があるのですが、あなたは自分の思いが正しいと思う主観的な高校生さんだと思います。」
実はその後のやりとりがあり、高校生は私に対して「私が子供を代表した意見を述べてるといつ言いましたか・・・」となるわけですが、自分の思いが子供すべてに当てはまらないということで言ったわけですが、討論よりも、その件を言ったことはこちらが素直に謝っておきました。えっ、と思われるかもしれませんが、そこは重要な点ではないからです。ここで言っておきたかったのは、どのような展開過程を経て9月入学案が実現できるのか説明してほしい・・・ということです。それがなく、ただ主観的な思いで9月入学案に賛同、ということでは駄目だよ、というのは言っておかなければならないことだと思ったのです。
 9月入学案を出す、またそれに賛同する人、人の発言にはそのように発言する思惑、根拠があり、そこを見極めるため、発言に対して発言の中身を分析することは大切です。会議を定期的に行うというのはとても大切なことで、そのことはある程度の企業に勤めてこられた方なら身についています。私の会社の上司でさえ、それは知っています。問題なのは発言する相手方の立場になって、この人はどういうことでそのような発言をするのか、今、起きている表面的な現象だけで発言の意味合いを判断せず、本音の部分を掘り下げて、言っている真意をつかむことでしょう。人はどうしても自分へのこだわりがあります。そこからどうしても離れられません。相手がどう考えているのかという点を遊離する傾向があります。自分の思いの方が可愛いのです。見えている部分を安易に認証し、現実に起きている状況に染まり、この先、何が正しいのかという結論を出すときに、自分の思いを中心としたものを当てはめる計画を出しがちです。しかしその元での計画の実行は、危険性をはらんでいるとを私は思っています。

 相手の発言を分析し、間違った考えには指摘をする、それが相手に対する本当の優しさなのではないでしょうか? ですから会議で討論して指摘しあい、最善の案をみんなで決める、そこにこそ物事が良い方に向かう本質があり、そのような組織は、組織としての質は高いと私は思っています。現在はお互いに意見を出し合い対等に話し合って決める時代であり、女性でも対等に話す時代になりました。上から押さえつけて話すという昔の軍隊形式は過去のものとなりました。
 私はそういうことを職場では以前、感じており、労働組合の必然性というものも同時に感じていたのです。

子育て世代の当事者 から宮城県知事に9月入学案を問う

 今回は2020年4月に宮城県知事M氏が言い出しっぺの9月学校入学案について、私が思うところを書いていきたいと思います。結局それは日々、会社内においても感じるところと通じるものはありますが・・・。
 2020年4月下旬、宮城県知事M氏はコロナウィルス感染を避けるため、休校している学校の入学、始業式を、9月にする案を全国に向かって打ち出しました。その時に言われていたのが次の言葉です。
「9月に合わせると、地域間の学力差がなくなり、海外留学や留学生の受け入れもしやすくなり、国際化に弾みがつく。」
 いやいや、何とも美談でまとめられた言葉です。しかし・・・、それに対し私はそういう策はどうかと4月の段階で異論を唱え、このブロブではないですが、ネットにその件に対し問題提起をしました。この問題は知事が自分のこととして感じ取る感性はあるのかと、疑問に感じたのが問題提起の発端です。コロナ問題で学校が休校になり、そのせいで学校に行けなくなり学習の遅れが問題なのに、知事は学校に行けない状況が続いているので、いっそのことこの機会に9月入学案を押し通すことに意義がある・・・と言わんばかの都合のいい解釈で9月入学案を押し通そうとしたのです。
 本来は学習の遅れに対して、そのような環境を変えていくことが筋であると私は思います。すでに私立の学校では行っているようですが、ネットによる授業を行える環境作り等、検討、やることはいっぱいあるはずです。しかしそのような環境にしていくことは、一朝一夕ではできません。よほど検討しないとそのような環境には変えられません。知事はそれよりも9月入学案という、誰もが度肝を抜くようなアピール性があり、面白みがある案を提起したのではないでしょうか?
 学習が遅れることに対しての環境整備はなかなか変えられない・・・、知事は現状を変えられないという固定観念で、そのことに対して放棄する感情はこの時点でなかったでしょうか? 問題の根拠はそこにあるのに、別の真新しい案を出し、その案を、それによってどんな社会的な混乱があるのかも考えずに押し通そうとするという、しかも1回ではなく何週間か前も9月案も考えた方がいい・・・という発言をしています。この宮城県知事は教育関係者の意見、父兄の意見も聞かず、上からの押さえつけで物事を実現させようとする、実に官僚的な方だというのを今回感じました。しかもこの9月入学案は学校だけの問題ではなくなるはずです。なぜなら世の中の新年度は4月だからです。ですから非常に危険な考えの知事だと私は感じました。
 しかし、4月の段階で私が知事の発言に対しネットで問題を提起したら、感染爆発のため学校に行けない、見通しが立たない、それならばいっそ9月から再スタートを切ってちゃんとやった方がいい、子供を学校に行かせられないという感情論だけで学校再開はできない、理解しろ等、私に対しての一般の方からのネットでの攻撃は凄まじいものがありました。そのような方々に私が言ったのは、今、日に日にこれを行ったら大変という現実がみなさん分かってきたようです・・・これは社会構造が変わってしまうような話なのです・・・という回答をしていきました。
「どのような展開過程を経て実現できるのか、説明してほしいです。でもそれは酷なのでいいです。ここ数年9月入学式の話しが出ても、社会構造上、越えなければならないハードルがあり、実際には行えないのです。感情論では物事の実現は不可能なのです・・・。」
とかく我々は思い付きでネットにて物を言う癖があります。木村花さんのネットでの誹謗中傷が原因の自殺等、社会問題になっていることではあります。追い詰めた方、相手側の立場に立ったことはあるのでしょうか? でもそれが一般の方ならは、私はその個人に対して物申すことはできません。誰なのか分かりませんから。しかし、県政の長であるはずの宮城県知事には、カッコ内のことは問いて行きたいのです。主観的な感情論だけで押し通していったら、大変なことになるということを話したいです。宮城県知事のM氏は自己の都合により発言を組み立てるのではなく、問題の根拠を掘り下げ、今回は児童・生徒が当事者になりますが、その当事者の立場から思考することをやって欲しかったと感じました。そうすれば何を最初にやらなければならないか、自ずと分かってくるはずで、9月入学案は、とても恥ずかしくて言えなくなるはずです。子供側に立ち、子供の日常性に理解していたか、また学校以外の組織の立場に立ち、そういった社会的な日常性に対し理解していたか、私は宮城県知事にはそういう要素が今後、求められると思います。大阪府知事も一時期9月入学案には賛同していましたが、大衆側に立ち日常性を理解するという点では、一回りも二回りも最先端を行っていました。それが大阪府民から指示を得ている根拠でしょう。
 宮城県知事M氏とは、選挙活動をしているとき、某区民祭りに現れ、その時、たまたま私もだんごを販売していたテントに顔を出し、写メに一緒に入ってくれたということが過去にありました。私はそういった庶民感覚の気さくなところはとても好感が持てます。しかし、今回の9月入学案を押し通そうという行動は、いかがなものかと感じました。
 仙台市では最近、小中学校に一人1台のタブレットを今年中に与え、オンライン授業の整備の方向に向かうかじを切りました。これは万が一、今後も休校になった場合を見据えています。でも県内で仙台市だけがそういう環境が構築されるだけでいいのでしょうか?
 そこいらへん、知事のM氏には状況を把握し、早急計画、実現させるための策を検討して欲しく思います。すでに目の前に地域落差の問題が転がっているわけですから・・・。

子育て世代、杉村太蔵氏の発言から思うこと

 本日はTBSサンデージャポンにて、杉村太蔵氏の、国民一人当たり10万円一律給付に異議ありの発言が話題になっています。

 私のブログはいつも文章が結構長くなり、内容的にも気軽に読めないようになっていること、少し反省したく思います。ただ、自分的には労働組合に絡んで、これくらいのことは感じているというのがあって、それは日頃、口に出すことはないので、文章にて長々と書いてしまいました。とにもかくにも私は懲戒解雇され、裁判闘争に勝利し、職場に戻ったという異質な存在です。私のような人は、そんなに多くないと思うんです。ですから書けることは書いておきたいというのがありました。普段は何も考えてないような私ですが、でも少なくともこれまで文章に表したことは頭にあり解雇撤回闘争の末、職場に復帰したというのがあったのです。

 今日はテレビを家族で見ていたらTBSのサンデージャポンでの、杉村太蔵氏の発言が気になりました。確かに子供が3人いれば、国民一人当たり10万円一律給付ですから50万になり、杉村氏が言う通り「派遣切りにあった、収入が半分以下になった、そういう派遣の方は残念ながらなかなか結婚できない一人暮らしの人が多い。こういう方は10万円なんです。公平なようで、強烈な格差を生み出す。」

 これはなるほど、子育て中の私から見てもごもっともな発言です。私自身、落差社会について問題視する気持ちはあります。今までのブログの中でもそれは意識して書いてきました。特に結婚できない一人暮らしの方について、そのような社会を生んだ日本について、問題視することを私は気持ちの中にあります。

 ただ一つ思うことは、一生結婚しなくてもいいと思う人も増えたということです。私はそれはそれでも問題だと思っています。結婚しなくてもいいという人が増えた上での社会構造になりつつあります。政府にしてみてば派遣社員制度を生み出し、家族を持つことよりも個人で楽しむこと、その方向に若者に対して見事に目を向けさせたこと、私から見れば、政府に見ればハメられたという見方もできるのです。

 政府のお役人は誰もが結婚しています。そんなことお役人の世代ではあたりまえだったはずです。結婚して子供を持つことによって、自分を成長させた部分も大きかったと思うんです。それなのに労働者よりも資本家の方に目を向け、派遣社員契約社員を作ってしまい、しかもそれで私はいい、という人間も作ってしまった政府の罪は大きいと思います。自分たちは結婚していますよね?、結婚して得られた良さが分かりますよね?でも派遣社員を容認するんですか?と、私は言いたいのです。

 ですから杉村太蔵氏の発言、的を得ていると思いました。

 が・・・、家族を持ったものからの見解も私はあります。杉村氏も本当は感じていることだと思います。杉村氏の家族は5人といっても大半が扶養のはずなんです。杉村氏が稼いでも自分一人だけのために使うのではないと思うんです。現在、学校が休校していますから、今、言われているのが食費の増大の問題です。そういったことは家庭を持たないとピンとこないでしょう。論点がズレていると言われるかもしれません。主観的な話しととらえられるかもしれません。でもここは個人のブログの場です。扶養家族がいる世帯の不安解消も、私は必要なことだと思います。自分の身を守るだけではないんだと。自分と扶養家族を守らなくてはならない人もたくさんいるんです。怒られるかもしれませんが、独身の方が考える感覚とは全く違うのです。独身の方からすれば客観性のない話しが、実は現実問題としてはあるわけです。それは理解して欲しいと思いますし、杉村氏自身が大衆受けにそんなことは言うべきではなかったと私は思います。

 派遣切り遭い、困っている人、それは私も問題視したいところです。しかし、結婚して家族を養っているが受け狙いにそんなことは言ってほしくないというのも私にはあります。相手側から見て物事を考えるというのは大切ですが、そこには一方に偏ることなく客観性がないとダメだと思います。派遣切り遭い、困っている人、家族を養わなければならない人、立場は大きく違うんです。そのことを杉村氏には言って欲しかったです。そうでなければ、私は独身だから10万だけでは不公平と思う人も多くなると思います。

 このような状況、また独身でいいやという人の増大を生んだ国、政府に対し、私はいかがなものかと思っています。

 以前、お話しをした通り、私は独身の期間も長かったわけで、独身の時は独身の方がいいと思っていました。しかし家族がいた方が地域活動はやりやすくなるし、やはり家族を持つべきだというのが私の持論です。ただ家族を持つ者同士というような、偏った人間関係は持たないようにしています。それでは客観的に物事を見れなくなりますから。

 いや、まだまだ私は広い目で見ることが足りないと思ってます。まだまだ成長過程です。

子育て世代は!?前代未聞の小中高の一斉休校で本日感じたこと

 今日は2020年2月28日、早朝舞い込んできた、新型肺炎コロナウイルスに対処した小学校、中学校、高校の約1か月間の全国一斉休校について思ったことを書かせていただきます。

 まず率直な意見としては、私は休校策には一定評価はしています。その理由ですが、①子供を最優先した考えがあること。②全国一斉で、同じ考えの元、行われること。このコロナウイルスが拡散している今、全国統一でやる価値はあると思います。日本は子供のことを思い、こんなことができるんだというのは、海外に対しても誇れることです。私は子供ありきの世の中、子供ありきの日本、そういう意思がこの日本に薄れてきていると感じていました。今の社会が子供ありきというのが土台にない、私はそう思っています。私はそういったことに不満を感じていました。

 地域活性化、最近はよく聞く言葉で、それに絡めたイベントは昔より増えたと感じます。地域住民が触れ合う、協力し合う、そういう意識が芽生える土壌には、子供の存在は欠かせません。子供がいるから知らない家庭同士が仲良くなれる、協力し合って地域を盛り上げたい、そういう気持ちになのではないかと感じます。私は昨年中学になった息子が小学生時代は、小学校の父親有志で作るおやじの会で一時期活動していましたが、子供は地域の宝だと思っていましたし、どんな子供にも平等に接していました。

 そんな私ですから、私は子供なんか作らない、社会が良くなる活動をしていくんだという人をたまに見かけると、何言ってんですか?と、子供を無視してどのように社会を良くしていくんですか?、自己満足の活動ですか?そう言いたくなります。まあ自己満足というのは少々言いすぎですが。日本が良くなるためには、どうしたって将来を担う子供の存在を忘れてはならないと思います。

 いつしか日本という国は、平気で非正規労働者契約社員という期限付きの労働者を増やす国になりました。労働者よりも資本家が重視される日本になってしまいました。

 今回の全国一斉の休校、それ自体は先ほど申した通り私は評価しているのですが、しかし・・・、共働きで小学校の低学年がいる家庭であれば、やはり長い期間、家においておくのは親としては気が引けるところでしょう。そういった国の休校に対する不満が本日は多く出てきていますね。子供を感染から避けさせるため自宅待機させる、その考えは悪くありません、しかしながらそれによって生まれる共働きの親の負担はどうするのでしょう。その部分が日頃、まったく考えられもせずにここまできてしまった日本なのです。共働きしなければ家計が成り立たない方がたくさんいるのに、今回のようなとき、それに対する対処がまったくないわけです。このことは日本の盲点だったと私は強く思います。少子高齢化が進み、子供ありきの日本ではなくなってきている、それが今回噴出した問題となってしまっています。ですから全国一斉休校には、欠点があったともいえるでしょう。

 私は労働組合の活動として、将来的にはその部分、労働者と子供、その2つに関連する問題について、クローズアップしていきたいと考えています。日本に光明が差すには資本家よりも労働者の方に利益が来るようにしなければなりませんが、お互いに助け合っていこうという精神は、子供がいる同志だと格段にそういう意識が上がっていきます。もう6年以上前の話になりますが、私の子供が保育園にいるとき、迎えに行くとヤンキーっぽい男性が、すごく子供に気を使い、また親同士である私に対しても、心のこもった挨拶をいつもしてくれました。勢いで子供を作った方かもしれないのですが、子供ができれば自分が子供ではいられなくなります。子供に大人にさせられるのです。どんな人だってそうだと思います。

 ですから非正規社員増大なんて、もっても他だと私は思っています。男性がそういう状態で家庭、子供が持てますかと。大学を卒業しても非正規になり、30歳くらいになっても親元から離れない・・・、そういう人と、元はヤンキーでも子育てに頑張り周りにも気を使える人間になっている人、どっちの人間が多くなった方がこの日本は良くなります?答えは明らかでしょう。非正規で正社員になれないから私はもう家庭はいい・・・子供はいい・・・、独り身で友人と楽しく生きていきたい・・・・若い人たちがそういう考えになっていくことも、私は懸念しているところでもあります。

 今回の小、中、高、一斉休校、安部首相が決断を出したわけですが、やはり安部首相からは子供を思う気持ちは伝わってきません。政府は初期の段階で失態を犯しています。中国人観光客を早い段階でシャットアウトしなかったこと。その後ろめたさがあるので、今回の断端な判断を下したとしか私には思えないのです。数日前に北海道知事が先陣を切って道内休校を発表して大衆から評価を得たため、やるべきだと突き進んだということも思われます。結局のところ評価を得るため、そういう意味合いに感じでなりません。もし昭恵夫人に子供がいたら、一斉休校を行うことによって生じる問題について、当事者的な立場で考えられたのにと思います。

 来週から子を持つ共働きの家庭にどんな変化が訪れるのでしょう・・・。

 学校関係者は教育者という誇りをもって、家庭で生活する子供の立場になって、行動を起こしていくのでしょうか・・・。私はそこにも注目しています。国の策に立場上黙って従うか、それとも部活さえできない児童、生徒の立場になって物事を考えられるか?

 

 そして、企業は子育て世代を抱える労働者をどんな目で見るのでしょうか・・・。

 

 日本全国の子供たちが家庭待機という前代未聞の事態です。

 日本がこんなに子供のために足並みをそろえられること、それはある意味、世界に誇れることです。しかし、名実ともに誇れるのか?私たちはそこの部分を深く考えるべきでしょう。

 労働組合とて、賃金交渉等の経済闘争から脱皮し、社会を支えている労働者としても誇りを持ち、子育て家庭に起きる支障についての問題提起はしていくべきだと思っています。

 子供の保護者の働き方改革、このことを考えるような状況下に置かれた人物が、今まで現れなかったことは残念です。労働組合は現在、組織率が下がっており、家庭を大事にしている人は組合活動をしない傾向にあり、また、その逆のパターンもあると私は思っています。ですからこういった問題はなかなか話が進まないところはありますが、今後、私はそのような意識ある皆さんと、子供の保護者の働き方改革については考えていきたいと本日感じました。

 

「やなせたかし」さんの戦争体験から来る思い

 やなせたかしさんは、お亡くなりになられていますが、94歳まで元気で活躍されていた漫画家でした。

 人気アニメ「アンパンマン」の主人公は、自分の顔をちぎって人に食べさせる、というのがあります。そのようなヒーローが誕生した背景には、やなせたかしさんの戦争体験がありました。青年時代6年間軍隊で過ごしたやなせさんは、終戦間近、上海戦争に備え1000キロの行軍をしました。そして飢えに苦しみました・・・。この体験から、やなせさんは痛切に思ったことがあったといいます。

「この社会で一番憎悪すべきものは戦争だ。絶対にしてはいけない」「今の日本では飢えが身近にないので、実感がわきにくいかもしれない。だが、しばらく何も食べないでいれば、飢えのつらさは体験できる。本当に飢えているときには、どんな大金より、一切れのパン、一杯のスープのほうがすっとうれしい」(やなせたかし・明日をひらく言葉<PHP文庫>)。

 戦争とそれによる飢えは、それまでの正論さえもひっくりかえってしまいました。「正義は不安定なもので、ある日突然逆転する」「正義のための戦いなんてどこにもないのだ」(やなせたかし・明日をひらく言葉<PHP文庫>)。

 しかし一方では、逆転しない正義もあったようです。それが献身と愛、弱者を助けること・・・、自分の身を削って人を助けるアンパンマンには、そんなやなせさんの思いが凝縮されています。

「正義を行おうとすれば、自分も深く傷つくものだ。でもそういう捨て身、献身の心なくしては、正義は決して行えない」「困っている人のために愛と勇気をふるって、ただ手を差しべるということなのだ」(やなせたかし・明日をひらく言葉<PHP文庫>)。

 また(私が正義について語るなら<ポプラ社>)では、アンパンマンを書いたのは「本当の正義」を伝えたかったからということが述べられています。アンパンマンはヒーローだが情けない。弱点もある。「正義を行う人は非常に強い人かというと、そうではないんですね。我々と同じ弱い人なんです」(私が正義について語るなら<ポプラ社>)。大変な名言です。弱い部分があるから弱い人の気持ちも分かる、考えてみればそのような部分が自分にないと、同じような境遇の人の気持ちは分からないと思います。こんな私だからこそ正論を言い闘っていけるのか?、と感じ、自己卑下に満ち満ちていた私は、やなせさんの言葉に心が洗われていきました。

 決して最強ではないが、身近な人の幸せを願い、困った人を助けることこそ正義、アンパンマンの歌にもある通り一貫して「愛と勇気」を伝えたアンパンマンを生み出したやなせたかしさん、このような私でも、やなせたかしさんに教えられたことにより、能力・力量を気にせず、毎日の生活を送れています。