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NHKが映らないテレビでも受信料を支払え! 三権分立も崩壊!?

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 NHKが映らないように加工したテレビでも、受信料は支払わなければならないのか? NHKが映らないように加工したテレビの契約義務が争われた控訴の控訴審判決が、2021年2月24日、東京高裁でありました。

 一審で東京地裁は契約義務を否定していました。普通に考えてそうなるでしょう。NHKが映らないのだから契約義務はない、何もおかしいところはありません。

 しかし二審の高裁ではどうだったのでしょう。電波の増幅器を付けるなどすれば映るようになる点を重視し、契約義務がある、と判断され、NHKの逆転勝訴となります。みなさんはこの判決に道理性があると感じますか? 一国民と国営の団体という、力の差がある者どうしの闘いに道理は通るのか? 私もこの裁判は興味を持って顛末を観察していました。そしてその答えが先に書いたような結果でした。

 「電波の増幅器を付けるなどすれば映るようになる」ということを司法は持ち出してきました。この、電波の増幅器を付けるなどすれば映るようになる、というこじつけ染みた理由は何なのでしょう。まことに都合のいい言い方であると言えます。「増幅器」が国民の一員としては不自然に聞こえます。明らかに取って付けたような意味不明な「増幅器」を持って煙に巻き、国営の団体側に裁判所が立ち、映るようにできるから契約義務がある、という方向に持って行く文言に過ぎないように感じます。「増幅器」を持ち出した中身をひも解けば、何が何でも国営団体に受信料を支払わせるようとする思いがにじみ出ているではないですか。NHKが映らないように加工したテレビでの、受信料を支払いの合理性を作り出しているのであります。この判決を出した裁判官は司法の中立性にあって、客観性には欠けていると言わざるを得ません。

 「NHKが映らないテレビでも受信料は発生するの?」この疑問は避けられているのではないでしょうか。本来であれば取って付けたような理由ではなく、もっと明確な理由で契約義務の合理性を裁判所は語るべきではなかったのではないでしょうか。もっともこのことを突き詰めれば、国営団体に勝訴させることはできなくなるでしょう。

 無理やりこじつけた感のある判決内容を出しは背景には、「NHK敗訴は国民が受信料を払わない方法を教えることになる」という思いがあり、そこに国営団体と司法との結びつき、というかしがらみの疑いも私は感じてしまいます。私はこのブログでアニメ「機動戦士ガンダム」において以前語ったように、一般大衆のことを考えず、権力によって自分達の利益を考える姿勢に対し問題視をする内容を書いて、一定の支持を得ています。今回のこの件も、何かしらの内部権力は働いてはいないでしょうか? このような逆転勝訴の判決を出した裁判官をこの高裁の判断に当てるその背景に、奥深いものはないのでしょうか? 地裁の判決でいったらNHKは元もこうも無くなるのは必然的です。その流れを打ち破るには、それ相当の裁判官を当てなければなりません。訳の分からぬ「増幅器」を持ち出した文言の本質は、私達はしっかり考える必要はあるでしょう。裁判闘争経験のある私だからこそ、少なからずこのことは、世に暴露しておかなければならないという使命は持っています。経営法曹会議や、経団連からの影響は裁判所内でなかったのか、そういったこともあります。あったとは断言できません。しかしなかったとも断言できないのではないでしょうか。

 そう考えると本当に怖いのは相手方弁護士ではなく、司法の内部権力なのではないでしょうか。裁判長の国権主義、完璧なまで国側に立った世界観というのを感じざるを得ない裁判の結果であります。ずでにコロナ禍において国の政策は疾走し、建前だけの民主主義であることは国民が感じていますが、三権分立もうまく機能しているのか分からないという、実はこれが日本の現在の姿と言えるのではないでしょうか。

 

吉村知事は大阪の救世主になるか

 コロナ禍の中、連日、メディアに登場し、知名度が全国区の大阪府の吉村知事。23歳で司法試験に合格し、弁護士という肩書も持つ44歳の若き知事です。

 コロナ対策において「大阪モデル」という独自基準を打ち出し、大胆な姿勢、実行力が一時期話題になりました。

 そこで私が思うことは本当に現実から出発して判断し、政策を現実に有形化しているか? というところ、そこに着目しなければというところです。

 今、大阪ではコロナ禍において医療崩壊の危機が騒がれています。この医療崩壊は国の政策GOTUキャンペーンが失策だったからでしょうか? 確かにGOTUキャンペーンの停止において、国のスタンスとして、自治体からの停止の要請があれば停止するというような考えは、国は何を言っているんだということにはなるでしょう。しかし今回の医療崩壊の危機において話しは別です。そうなる以前に対策を取るということに関し、住んでいる地域の者の方が状況は分かるはずです。

 テレビカメラの前で以前、「大阪モデル」なるものを、全国に先駆けて誇らしげに説明していた吉村知事。しかし一方で大阪府は、病院の病床は余っていても、スタッフが足りていないという議論をずっとしてきたと、医療関係者は言います。それがやっとここにきて、あわてて医療従事者の確保に走っているようなのです。

 大阪府知事吉村氏は、机上でそれなりの計画は立てられたとしても、現実的に重要な点、また政策の有形化において状況が好転していくのかという、現実的な目線というものが乏しかったと批判されても致し方ないのではないでしょうか。

 どうしてこういう状況が起きるかと言えば、府民より、自分にこだわっている結果だと私は結論付けます。頭のいい方なので優秀な政策は出す、しかしその思いの背景には何があるのでしょうか? 自分の株を上げるという自分へのこだわりの部分はないでしょうか? いやそんなことはない、知事は頑張っているという人もいるもしれません。しかし現実のひっ迫した状況が政策・判断において、現実を好転するために今の状況を分析し、そこから組み立てていくというよりも、頭が良すぎるばっかりに、主観的に組み立てて、一見、完璧ともいえる「大阪モデル」を作り、打ち出したものと思われます。

 私は非現実的な、コロナ禍における休校の学習の遅れを解消するという、学校の「9月新年度」の件について、その改革に取り組み注目を浴びようともくろんでいた吉村知事の姿に、現実が分かっていなく注目を浴び、株を上げることに固執した危険な知事という評価をそのとき持ちました。9月新年度案は、このブログにも9月入学案の意見として、私の考えを述べたときがありましたので、そちらの方はぜひ、ご覧ください。

morinomiyakotyanneru.hatenablog.jp

morinomiyakotyanneru.hatenablog.jp

  9月入学案は、4月、5月はしきりに大衆段階でもその方がいいという考えがありました。そういった世論もあったので、なおさらイケると思ったのでしょう。しかし世の中の新年度は4月であり、社会構造も変えない限り、学校だけ新年度が4月にはできないのです。その社会構造を変えることがどれだけ大変なことか、吉村知事は分かってないのではないでしょか? 主観的な理想論を唱えても現実は変わらないのです。仮にコロナが秋までに終息してたとしても同じです。

 私は解雇撤回闘争において、一定の数の弁護士さんとは接点がありました。そこで、弁護士さんとは雲の上の存在ではないことが分かりました。現実ではない話しをあたかも現実のように並びたてる、解雇撤回のときの会社側に着いた弁護士は、そのような弁護士でした。文章の作成能力は弁護士であればありますから、いくらでも文章は書けるわけです。しかしその内容が現実的なのか?と言えば、それは作成能力と比例しません。

 相手側の弁護士の答弁書を打ち砕く、それは簡単なことです。現実から出発した正論を書き、文章に創作は入れないことです。相手がプロの弁護士であってもこちら側に非がない場合、弁護士が作成した文書さえも打ち砕くことは可能です。

 吉村知事は弁護士の肩書を持ちますが、ある意味、そういうところは出てると私は思っています。正論を言っているがごとく政策を並べ立てることも、職業柄、訓練されているところがあります。

 しかし、ちゃんと現実を見て、こんなの引き受けられない・・・と初めから言う真面目な弁護士の方が多いわけですから、みんながそうやっているわけではありませんが、弁護士はそういうこともできるということです。

 いろいろ言いましたが、まだ若い吉村知事には頑張ってほしくも思っています。それには自分へのこだわりを捨て、現実を見て分析していき、現在の状況を評価し、そこから政策を立てていくというサイクル、その流れを作ることだと思います。そうしなければ、立派な政策を打ち出しても状況は変えられないどころか悪化する、空振りの政策になってしまうのです。

情勢はガンダムの世界観通りに・・・誰も語らなかった機動戦士ガンダムの本質

 

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 連続してアニメ・機動戦士ガンダム絡みの話しになります。しかしそこから見えてくるものの大きさは計り知れなく、今、語っていくことの重要性を感じました。

 現代の日本において非正規労働者が増え、それに伴って家庭を持つということが一つの選択肢に過ぎないという状態が、この日本に作られつつあります。家庭を持とうと思っても家庭を持つほど収入がない・・・そんな状態が作られています。

 一方、有名大学を出てエリートコースを進む者もいます。最初から家庭を持てる、そして家も建てられる収入が保証されます。その層は人を支配する方に回っていきます。そして自分の生活が保障されているために、貧困層の現実が分からないという人間になっていきます。2020年、コロナ禍においては国の政策が迷走に走っています。なぜでしょう。一部の層の利益が優先になり、一般大衆の中に入り、そこからどうすればいいかという論議が行われていないからではないでしょうか。

 本当にこの日本をどうにかしないとならないと思ったとき、官僚の主観的な思いで決めるということでは、うまくいかないのは当然です。一般大衆の上に官僚がいる、その構図では、本当の一般大衆の思いは分からないのです。

 さて、表題に示したアニメ・機動戦士ガンダムにおいて、物語の構図というものは、どういうものだったのでしょう。実は年代的に私は初期のガンダムしか分かりません。ですから私の語るガンダムとは、俗にいうファーストガンダムのことであります。

 ジオン公国ガンダムにおける敵対の組織としては重要な位置づけがされています。それではジオン公国を支配するのは誰か? 権力を振りかざし富を得る支配階級の一族が実質に取り仕切っており、それを悟られないがために、名前だけは有名な思想家の名前を国の名前に使いました。そして国民には愛国心が生まれるように呼びかけていきます。

 その状況に違和感を感じ、客観的な目で演説等を聞き、闘争しなければならないと自覚していったのが、敵対する地球連邦軍の戦士でした。このままではジオン公国の支配階級に支配されてしまう。そういうものとは闘わなければならないという、立ち上がりの気持ちでした。

 ガンダムの劇中に、「自由のための闘い」という言葉を地球連邦軍の戦士の女の子が言う場面があります。さりげなく言うわけですが、この自由のための闘いこそが、支配階級の隷属からの解放されたいという意識の表れであり、現代で言うなら、国家の支配階級の政策の矛盾から解放されたいという気持ちになります。

 1960年代を大学生として生きたガンダムの制作スタッフは数多くいます。学生運動に参加し、逮捕された人物もいます。そういうスタッフたちは何を思うのでしょう。国家権力からの解放、まずそういう物を思うのではないでしょうか?そういうスタッフがガンダム制作に関わっているからこそ、実質の専制国家を打倒するための若い戦士たちの闘いというリアルな構図が作られ、その構図というのは国家と、当時それを問題視する若者の対立という構図が原点にあり、そこからの本心を外に出さないスタッフたちのガンダムの制作が始まったと思われます。

 昔の学生運動では有名な大学の大学生が関わっており、暴力的な面を持っていながら頭脳の方は優秀な者が多く、計画なく行動することは無かったようです。相手を知り相手を分析する、どうしてこの国はそのような思考になるのか、その分析すぐさまなされたと想像できます。

 そこで前回申し上げた「そして、今は皆様一人一人の未来の洞察力に期待します」という、ファーストガンダム劇場3部作のラストメッセージの話しです。富野由悠季氏を筆頭としたガンダムを制作した大卒の優秀な人材は、なぜ、アニメ業界に入ったのか? それまでの活動を見れば、なかなか一般企業には入れなかったのでしょう。しかしガンダムを制作した時、出たのが自己が持ち備えている思想でした。もともと有名大学にいた優秀な人間なのですから、持ち前の思想を表面的に表さず、しかし奥深い物語を作っていったと思われます。そこでそういった人材がこだわったのが、登場キャラクター達の取り巻く環境でした。この人物はどういう形成過程を経て、このような考えになるのか、この人物が発言する背景には何があるのか、そういうことが細かく描写されていきます。実はそこがガンダムの面白いところであります。絶対に意味のない発言をする者はいなく、視聴者を感動させるためという理由にその場限りのカッコイイ発言もありません。なぜこの人はこのような発言をするのか? 付きつめれば、絶対に意味があるのです。

 洞察力という意味は何か?と言えば「物事の本質を見抜く力」です。この洞察力があってこそ機動戦士ガンダムが面白くなり得る訳であって、それがないと、ほとんど意味合いが分からずつまらないものになってしまいます。正に制作スタッフは当時の若者にそういう資質を求めたのでしょう。そうじゃなければこれからの時代を、ただ受け入れるしかなくなる、ガンダム総監督の富野由悠季氏以下、制作スタッフは熱い心意気がメッセージに感じられます。

 この日本が歩んできた道は、江戸時代までの封建制があり、明治維新以降は資本主義が約150年続いています。そんな中で闘争を学生時代に行った高学歴のスタッフは、今後、どういう世の中になっていくのか・・・、ある程度、予想が付いていたのでしょう。国の迷走を予測し、資本主義の限界から来る倒産、解雇、賃金カット、しかし消費税増税と、現在の私達の生活が追い詰められる状況が予想できたのでしょう。

 その時、私達に何が求められてているか、真理はどこにあるのかという洞察力が大切になってきます。その力こそ、私達、一般大衆が訓練しなければならない力であり、国は何を考えているのか、周りの人間は何を考えているのか、これからの時代を生きる上では大切な能力になってくるはずです。

 非正規社員を増やした方が会社は利益を生み出し、設備投資の方にお金はかけられます。そういった状況になるように派遣社員契約社員という制度を、現在では国も認めてしまっています。非正規社員が増えることにより生じる恐ろしさ、生活が苦しく結婚もできない、しかもそれは少子高齢化につながっていく・・・といった連鎖的な問題が膨らんでいくのです。その状況を私達は黙って見過ごしてしまうのか、自分さえ生活が安定すればいいのか、本当に胸に手を当てて考える時代にはなっていると思います。

 その時に大切になってくるのが洞察力です。この国は変わらないのではないな・・・ 私の会社は変わらないのではないか・・・ いやいや、そうではありません。偉い人も普通の人間、自分も普通の人間、そう思って相手の発言を洞察していけば、何でそういう発言をするのか、その背景には何があるのか、気づくはずです。そこで相手を研究するという姿勢が生まれてきます。

 この国を良くするためには、やはり一般大衆階級が物申すという時代にならなければならないでしょう。そのために今、政治が何を考えているのか、ちゃんと洞察して評価を出しておかなければならないでしょう。私には一定の評価はあります。でも個人の思いをここで言うのはいうのは控えさせて頂きますが・・。

 そういった意味で、機動戦士ガンダムの初期の劇場版3部作ラストメッセージ、And now... in anticipation of your insight into the future・・・(そして、今は皆様一人一人の未来の洞察力に期待します)、約30年も前に出された言葉は、特に今年のコロナ禍において、非常に重要なメッセージだったのです。 

ファーストガンダム劇場版3部作ラストメッセージに込められた真意

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マイクを通しては国民の感情を奮い立たせる発言をするギレン・ザビ

And now... in anticipation of your insight into the future

みなさん、この意味、分かりますか?

 初期のTV版、機動戦士ガンダムを劇場版3部作に再編集したものを、劇場公開したときに、最終作の最後に表示された、総監督、富野由悠季氏のメッセージです。私がこのメッセージを映画館で観たのはまだ10代の時でした。映画で横文字が最後流れるなんてカッコイイな・・・その時はそれくらいにしか思っていませんでした。

 その後にパンフレット等でその意味を知っても、ちょっとキザでカッコイイ・・・感覚的にはそれくらいでした。その意味とは?

「そして、今は皆様一人一人の未来の洞察力に期待します」

と、いった意味になります。

 当時、「endと表示するよりこれにしてみました」程度で、論理的に雑誌等でコメントを出す総監督、富野由悠季しては簡単な説明でした。

 今考えると、おそらく、この程度に言っておいた方が問題ないと思ったのでしょう・・・。最近ネットで、最後、なぜこのコメントだったかについて、「アニメなんか見ている場合じゃない、自分自身の人生を全うしなさい」と解釈した人がいます。その解釈はネットで検索すると上位に上がっています。・・・でもそれが富野由悠季氏の真意だったのでしょうか?

 富野由悠季氏は劇場版の当時のストーリー音声が収録された、レコードの解説書の中にあった「ツギハギ映画考3」で次のようなコメントを出しています。

「アニメは漫画、漫画は低欲、そう言われて何年が経とう。いやアニメはこうなっているんだ、それを知らせるためにやったイベントがアニメ新世紀宣言・・・」

そのように富野由悠季氏が「ツギハギ映画考3」で出している以上、「アニメなんか見ている場合じゃない、自分自身の人生を全うしなさい」という解釈には矛盾が生じます。

 富野由悠季氏が過ごした青春期は、学生運動が盛んな時期でした。大学生は自分達の未来を考えると国に従っていられない・・・そんな時代でした。そのような時代背景があり、その時期に大学生であった富野氏にとって、権力に対する反発心、そういったものは、現在の若者と比べ物にならないほど強いものがあったと想像できます。実際、年齢的に同年代のキャラクターデザイン担当のスタッフの一人である安彦良和氏は、学生運動に参加しています。

 実はそのような時代背景から生まれた思考が、ガンダムにも色濃く反映されていることが気づきます。私は年代的に基本、ファーストガンダムしか詳しく知りませんが。

 それまでの戦闘物のアニメ、悪者と戦う正義の味方から、権力を持とうとする国家との戦争、正義の味方などという感覚の無い戦士にガンダムでは変化しています。そのような何のために戦っているのか分からない登場キャラクターたちが、「人間の意志を阻止するの、そんなものは排除したい、そんなものとは闘わなくてはいけない・・・」というようなことを、さりげなく言う場面があります。そのさりげないセリフの中に、この作品の真実が見えてきます。最初は無意識のうちの戦争に若者が放り込まれ、しかしその中で階級感情が生まれていきます。専制国家、すなわち大きな政治権力を持つ支配者によって、独断的に行われる政治体制が闘う相手方の国家でありました。しかし支配される側の相手方の国民には、支配者親族からの言葉巧みな演説により、相手方の方が悪いという感情が植え付けられていきます。それを次第に専制国家と戦う戦士たちも悟っていき、支配階級には闘わなくてはいけないないという感情が生まれていきます。このままでは敵に隷属されてしまう・・・、しかしそこから解放されなくてはならないという感情です。

 実はこういった物語の構図になる土台というのが1960年から1970年代、大学生であった制作スタッフの思考が色濃く反映され、築かれています。

 さて、現代に目を向けると、今年はコロナ問題で1年が過ぎようとしています。政府はどういう思いでこの1年間、国民に向かって言葉を発してきたか、またそれに対して現実的な状況はどうだったか・・・、労働者は仕事を蝕まれ、子供は学校生活を蝕まれ、大変な状況に陥りました。数々の建前上の政策は空振り、しかし10月の初め時点ですが、この状況でも来年のオリンピック開催にこだわり続けるというありさま、戦後、国家と一般大衆がこれほどまでに溝が出来た年はなかったのではないでしょうか?

 そこで私達が身につけなければならなかったのが、洞察力でした・・・。首相がどういう気持ちで発言をしているのか、内心はどうなのか、首相はなぜそのような発言をするのか、首相をとりまく環境はどのようなものなのか? また都知事、県知事はどうか? TVの司会者、コメンテーターはどういう環境に置かれているのか、それが洞察できなければ、状況に対しての我々の判断、行動もできないのです。私達は支配者、権力者、上に立つ者の言われたことに対して従う習性は持っています。しかしそこで常に深く考えているでしょうか? なぜそのような発言をするのか、そのような発言は本心か、そのようにやることによってみんなが利益を生むのか? そこのところを考える必要があるでしょう・・・。

 機動戦士ガンダムに戻りますが、ストーリーの中ではキャラクター一人一人が、自分の考えを持っていました。なぜそういう発言をするのか、それには意味合いがあり、生まれ育った形成過程が発言に反映されるキャラクターもいました。正に視聴者、映画を見に行った観客の洞察力が試される瞬間でした。ガンダムが面白い、面白くないという境目は、個々の洞察力にあるという面が大きいと私は思っています。キャラクターの言っている意味合いが分からなければ、モビルスーツ宇宙戦争だけでは、見ていてつまらないだけしか残らないのです。そういったモビルスーツ宇宙戦争は、アニメという手法上の隠れみのの要素があるわけです。ですからTV版のオープニングが子供ぽっくても、実際の中身はつかみにくいということは当時から言われていました。少なからず洞察力がないと、とても内容や製作者の言わんとしていることが分かるものではなかったのです。

 そのような機動戦士ガンダムの総監督がファーストガンダム劇場版で残したメッセージ、And now... in anticipation of your insight into the future・・・

それは洞察力を身に着けないと権力者に隷属するだけ、個性を出し、人間らしく生きられない・・・、高度経済成長からバブル期を経て労働者が搾取され、子供の生活にも影響を及ぼすという、未来がどうなっていくのか、国家や支配階級に個人の生活が脅かされないか、それを見越した上でのメッセージだったと、今、私は感じます。「アニメなんか見ている場合じゃない、自分自身の人生を全うしなさい」というのはその通りですが、学生運動の時代を生きた人は、未来はどのようになっていくのか? それこそそれに対しての洞察力もあったと私は思っています。しかし、国家の支配階級に支配されてしまわないようにと言うと、ストレート過ぎてしまいます。そこで横文字のメッセージが妥当であったと思うのです。

 私達は日常で環境に染まり、自分を見失しないがちになるときがあります。少数より大多数の方が正しいと思ってしまう、そういうところはないでしょうか? でも今年はコロナ禍で、一人一人の主体が問われました。マスクをする、旅行をしない、一人独断で走るのではなく周りと協力する、自分の感情だけ出し生活していたのでは、生活しづらい年になりました。

 相手が、また政府が何を思い、それに対して自分はどう分析するか、評価はどうか、評価を出したら行動はどのように組み立てるか? そういうことが問われていきます。またその根本にあるのが洞察力であり、相手の考えが分からなければ分析ができず、相手に対しての評価も正しいものにならないのです。

 結果、行動の誤りが生じてきます・・・。

 しかし私が思うに、実践してみて、そこで反省してまた現実から組み立てる、行動の誤りはそのように是正できるものと思います。

 

そのときに、また洞察力が必要となってくるのです・・・。 

 

先行き不安な時代での心得・子供に教育したいこと

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 私が子供にこれから学ばせたいことは何か、と言えば、相手側の立場に立てる自分になれること、それくらいかもしれません。多分、妻もそうでしょう。それにはできるだけ自分が質素な生活を送る、これはおそらく基本になるでしょう。

 今回はあまり難しいことは言いたくないのですが、最低レベルの生活まで落とさないと、困っている人のことなど分かるわけはないでしょう。お金に余裕が出来たら寄付・募金、それでいいのではないでしょうか。私はそれでも幸せです。損をしたくないという欲、それこそがくせ者で、自分だけ、俺だけ・・という考えが強くなり、そういう考えこそが私は資本主義的な考えだと思っています。しかし、もはやそのひずみが落差を生み、コロナ禍の日本においては現在、大変なことが起きています。今年ほど、会社と労働者の関係がクローズアップされる年も珍しいでしょう。

 こういう時代は生活面でも柔軟性が求められると思います。

・私は最悪のシナリオを考え、すべて現在エコノミーを選ぶことを習慣付けています。

・職場内で労働運動を起こし一度解雇になった時も、暇だ、いつから働けるんだではなく、この時期にいろんなことを学んでおこうというプラス思考でした。

・職場復帰して、労働、家庭、組合活動という密度の濃い生活になっても別に普通でいます。

 つまり、周りのことを知り、周りの立場になれる、周りの状況に合わせられる自分になるには、自分が変化に耐えられる柔軟性を身に着け、備えておかないと、これから何が起こるか分からない時代に対応できなくなるということです。

 子供たちにも、そのような親の姿勢は見せていかなければならないと思います。

 俺の考えに従え!などという人には、生きづらい世の中になったのではないでしょうか。前回話しを出しましたが、もはや硬派な男性は時代遅れであり、日々黙々と仕事をする労働者的な生き方こそ、日本に光明をもたらすでしょう。

 これからの時代、子供に社会的に立派な人間になってほしい・・・と希望するより、相手の立場も分かり、お互いに協力して仕事をしていける「柔軟性」を持った人材になってほしい・・・という思える親は増えてくると思います。今年のコロナ禍で、地位・名誉ある人たち方の考えが定まらない日本において、このことはハッキリしてきてるハズです・・・。

日本に浸透する経営原則では家庭・子育てに落差が生じ、中流家庭も創出しにくい  

 私は子供時代、また青年期もアニメが好きでした。もしかしてヲタクと言われる元祖だったのかもしれません。高校生時代は雑誌アニメージュアニメディアを読みふける当時としては異質な存在でした。数年前に本屋さんで雑誌アニメディアを見かけましたが、今でもあるのでしょうか?

 現在ではアニメ市場も昔と比べ物にならないくらい拡大し、アニメ業界にとってはいい時代になったと感じています。邦画にしてもアニメ分野は欠かせなくなりました。私達の時代では最近、テレビドラマの主題歌にリメイクでなっていますが「男の勲章」という歌のごとく、硬派が時代の最先端を行っており、ヲタクは端の方を歩く存在でした。

 しかしながら時代は変わったものです。日本を震撼させた京都アニメーションの放火殺人事件に見られるように、犯罪自体もヲタクが起こす時代となってしまいました。

 高校生時代は人目を気にして雑誌アニメディアを買っていた自分でしたが、懐かしくも感じられます。私は、勉強の方はまるで駄目だったのですが、文章を書くことは好きでした。その当時、創刊も間のない雑誌アニメディアで、第1回アニメ原作コンクールなるものがありました。よっしゃ、と言うことで半月掛けて創作したものをアニメディアに送ってみました。そうしたら1000余名の内の中で最終審査まで残り、名前が雑誌に出ることになります。創刊後1年くらいの雑誌アニメディア、古本屋で見かけた方はいらっしゃらないでしょうか? いたらぜひコメントして頂きたく思います。でも35年以上前のアニメディアですから、まさかコメントは来るなんてことはないと思っていますが(笑)。

 35年以上前からアニメ雑誌の記事の主流は「機動戦士ガンダム」でした。当然のごとく私もガンダムファンでした。数年前に最初のガンダムのキャラクターが登場する「ORIJIN」が劇場公開されましたが、やはりそれは見てしまいました。不思議な感じがしたのはキャラクターが10代なのに、同じ世代の感覚で見入ってしまうということです。時代は変わってもキャラクターが当時のままだと、やはり感情移入してしまうわけです。ガンダムに関しては別な機会に掘り下げて話しを出したいと思っています。アニメ・宇宙戦争モビルスーツ、表面的にみればそのようなもので塗り固められており、くだらない俗物と大人も油断しがちになってしまいますが、それこそ私がたびたびいう本音と建前、言葉と内心が違う大人の汚さ・エゴ、そういうものが詰め込まれており、そういったものを力でねじ伏せようとした、学生運動体験者の制作スタッフでなければ作れなかったストーリー展開であったと思います。

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初期のガンダムでは国名になった親の娘であることを隠し偽名を使っていたアルテイシア

 そのガンダム以前に宇宙戦争物として「宇宙戦艦ヤマト」がありました。小学生時代はこちらの方の大ファンでもありました。「宇宙戦艦ヤマト」はガンダムよりファンタジー感は比べ物にならないと思います。また登場キャラクターが何を考えているのかというのは単純であり、ガンダムの場合こういう環境だからこのキャラクターはこういう思考になる、でも建前では別なことを話すという奥深いものがありましたが、ヤマトにはそれがないので、大人になって見返して観れば、面白みも半減してしまいました。

 でも、小学生時代に観た「宇宙戦艦ヤマト」の中で、心に響く主人公である古代進が敵を壊滅させたときに言った言葉があります。でも大人になるにつれ、もうちょっと別な場面で言ってほしかったと思うようにもなることでもありましたが・・・。人類を脅かす異星人である敵は倒さなければならない・・・、その時に言うのではなく、同じ立場の地球人に対して言ってほしい言葉だなという思いに大人になるにつれ評価が変わってきたセリフでしたが、

「俺たちは・・・入学試験でも、入社試験でも勝つことがいいことだと教えられてきた。しかし、勝つ者がいれば負ける者がいる。負けたものはどうなる。負けたものには幸せになる権利はないというのか。俺はそれを考えたことがなかった・・・。」

というセリフです。

 スタッフ陣は劇中の名言にしたかったのでしょう。しかしせっかくの名言が、人類を脅かす敵を倒したときに発せられているのです。邪悪な暴力を振るう敵を倒すのは当たり前のことです。問題なのはこのセリフにある通り、人の要素をペーパーの結果だけで判断する、学力があるからいい職業に入り、役職も付き、世の中を支配する立場になっていくという、その先には何が見えるかというと、人を支配し富を得る層を、試験の良し悪しが判断材料になり、そこに人の人格、本来持っている良いところを無視して、社会が自ら作ってしまっているという点です。人を支配し富を得る層がいるということは、それ以外の支配される庶民もいるということです。

 人を支配し富を得る層の家庭の子供が恵まれた環境の中で、偏差値の高い大学に進み管理教育を受けるという、そのような人材を輩出する土壌に大学の方はなっていると思うのです。

 富裕層は自分達だけが高収入を得て、一方、庶民の中には一生かかっても正規の職員、社員になれない人間が今の時代増えているという問題、その行きつく先は邸宅を得て、子供に十二分にお金を掛けられる層と、結婚もままならない、結婚して子供を得ても一生持ち家も持てず、子供に対して十分な学習環境も作ってやれず大学にも行かせられないという層、それどころか自分自身の生活もままならないという層、そういう落差をたかがペーパー何枚かで作ってしまっているのです。

 私達はやはり大学の管理教育、その先にあるもの、そこも作り替えていかなければならないというところに行きつくはずです。

 現在、中小企業労働者は、汗水流して働き、本当はもっと利益配分されていいはずなのに、働いて利益を生み出している本当の利益の部分をもらっているのでしょうか。それを搾取しているのはエリートコースを歩んだ人たちなのではないでしょうか? 私達の住む日本は表面上、あたかも国民1億総中流家庭であるかのごとく装い、実態は子育ても十分な環境で出来ていない、貧困な家庭が多くなっているのではないでしょう。  

 「良いものをどんどん安く」というのがスローガンだったスーパーのダイエー帝国は、数年前に、なぜ消滅したのでしょう。弱い立場の中小の仕入れ業者に仕入価格を値切る、そうしてお客様に安く売るという手法で、一時期は帝国になるほど拡大していったのですが、労働者にも十分な給料の支払いもままならなくなった業者は、しびれを切らしてダイエーから手を引くか、適正な仕入れ価格を提示していったようです。弱い立場の生産工場を買いたたき、採算すれすれの低価格で納入させ、それを価格破壊のごとく消費者の気持ちを引き付けるような方法で収益を上げるという、こういう風に字系列的に示すと、人としてどうなのかというやり方が浮き上がってきます。

 今いる私の会社においても、旧ダイエーとの付き合いはありましたが、名刺にも「良いものをどんどん安く」という言葉が表示されていました。しかも私が今の会社に入社しダイエーを訪問した時は、上から目線の態度でした。見ていると役職者は一般の従業員に対しても、自分の立場を利用した頭ごなしの指示を言っていました。もともとそういった社風だったのでしょう・・・。

 以前あったスーパーのダイエー帝国の話しを例に取りましたが、弱いものを無視して、自分が富を得、自分の家庭だけに反映していくというやり方は、現代日本の縮図だと考えます。やはり工場で労働者が汗水流して生産した商品は、適正な価格で、中小企業労働者の利益と合致した価格で流通していかなければ、結果、落差が生じてきます。中小・零細企業の適正な企業活動を阻止する商法を大資本が持ってはならないと思います。その大資本のもとで働く役職者は、高学歴の人が多いと思われます。そのような方々は、日本の消費が上がっていくのにはどうしたらいいかと言うことに関し、考えたことはあるのでしょうか。中小・零細企業の労働者が、家庭・子供を持って生活できるようにならなければ、日本の消費は上がっていかないでしょう。なぜなら日本は中小・零細企業の方が大企業より圧倒的に多いからです。大企業は自ら事務用品一つに対しても経費を抑える方向に考え、中小・零細企業、工場、仕入れ業者との共存共栄を考えるべきなのです。また、そうはいっても中小・零細企業の方も無駄をなくし、働いている労働者の方に利益を還元するという精神は必要となってくるでしょう。

 日本はバブルが崩壊し、またリーマンショックを経てマイナス成長が続いています。当然のことながら経費の中で動かしやすい人件費を抑える方向に走り、当然のことながらそのしわ寄せは労働者に来ています。そしてその先に、消費低迷があることを忘れてはなりません。日本は今、金回りが悪い状況が続いています。1億総中流などと言う言葉は、当てはまらないのです。労働者はリストラの危険にもさらされ、いざという時のために消費どころか、貯蓄に回さざるを得ない状況が作られています。政府、資本家が1億総中流などという言葉をマスコミに言い流行らせたのでしょうか。事態はそのようにはなっておらず、共働きで幼稚園より保育所の需要が多く、待機者も増大、子育てもままならない状況が続いています。そしてそのような時代を反映した子供食堂が各地に発生しています。

 契約社員派遣社員、パートアルバイト、そのような非正規の人材が、皮肉にも正規の人材より社内に多い企業が増えているというのが日本の現実です。このような状況に対し、そこに何かしらのメスを入れなければ、次の世代を担う子供たちの間でも落差が生じます。但し状況だけ言って、どうにかしなければならないと、方向性も見いだせずに言っていても仕方ありません。掛け声だけの、無責任な政府みたいなことを言っていても仕方がありません。

 やはり、公正公明な日本を構築していかなければならないという評価が生まれ、その改革の方針として、企業の経営原則を改めなければならない、というところに行き着くのではないでしょうか・・・。

いつのまにか父親目線のブログに

いやいや、このブログも転換期に来ています。

 

最近の記事はどう見ても、父親目線で語ったものが主体になってきました。

 

今回は正に素の状態で文字を打っています。

 

素とはどういうことか?と言えば、構成も何も考えずに文字を打ってるんです。ですからある意味、今回は別人格です。

 

労働関係でのブログで始まったのですが、この半年間で、自分は普段、何に興味、関心があるのか分かりました。

 

でも突き詰めれば、家庭、子供のことを取り上げても、今の時代、労働問題とは切り離せないものがあります。

 

このブログ、子育て中のお母さんも見て頂けるのは、ありがたく思いました。私は父親として立派な方ではないけど、でもそんな私が常日頃、感じてることをこれまで文書化したつもりです。

 

そういえば、最近、私が住む宮城で痛ましい事故がありましたね。中一女子、川でおぼれ死亡。いつもの私だったら、この事故の背景には何があるのか、この子はどういう形成過程を経て中学生になったのか?なんて堀り下げていきますが、今日は肩ひじを張っていないので。ただただ残念な事故だと今、感じています。でも報道で名前まで、上げることないのではと思いました。

 

さて、明日からまた、身を引き締めて頑張るぞ(^^)/